バルトロメ・エステバン・ムリーリョ

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ

ムリーリョ(別名:ムリリョ)

Murillo, Bartolomé Esteban Perez

1617年 – 1682年4月3日 (約65歳没)

スペイン 絵画

バルトロメ・エステバン・ムリーリョの人物情報

スペイン・バロックを代表するセビーリャの画家。1618年1月1日にセビーリャで洗礼を受けた(誕生は前年末とみられる)。9〜10歳で両親を亡くし、姉夫婦に育てられた。セビーリャの修道院や大聖堂、慈善同胞会(カリダード)のために多くの宗教画を描き、甘くやわらかな聖母像や「無原罪の御宿り」で人気を得た。一方で、街の物乞いの少年たちを描いた風俗画も知られる。1660年には仲間の画家とセビーリャに素描のアカデミーを開いた。1682年4月3日、セビーリャで没した。

同時代の人物

ムリーリョが洗礼を受けた1618年は、「浮世絵の祖」菱川師宣が生まれた年でもある。東西で、庶民の姿を描いた画家が同じ年に生まれている。筝曲の八橋検校は3歳ほど年上になる。

同じスペインでは、セビーリャ生まれの先輩ディエゴ・ヴェラスケス(ベラスケスとも)が約18歳上で、宮廷画家として早くにマドリードへ移った。故郷に残ったムリーリョとは対照的である。

ムリーリョが亡くなった1682年には、ローマでクロード・ロランも世を去った。日本では同じ年に井原西鶴(数え41歳)が『好色一代男』を出している。

年齢で見る生涯

  • 9〜10歳(1627〜28年) 父、続いて母を亡くし、姉アナと夫の外科医ラガレスに引き取られる
  • 15歳(1633年) 新大陸行きを決めるが、実現しなかった
  • 27歳(1645年) ベアトリス・カブレラと結婚
  • 32歳(1650年) 新大陸行きの船の関係者に大金を貸し付ける
  • 42歳(1660年1月) エレーラ(子)らとセビーリャに素描のアカデミーを開き、共同の代表を務める
  • 47歳(1665年) 慈善同胞会(サンタ・カリダード)に入会
  • 64歳(1682年4月3日) セビーリャで死去。カディスのカプチン会の祭壇画を制作中で、パロミーノの伝記は足場からの転落がもとになったと伝える
  • 没後(1852年) ナポレオン軍のスールト元帥が持ち去った「無原罪の御宿り」を、ルーヴル美術館が当時の絵の最高額とされる値で買い取る(1941年にスペインへ戻り、プラド美術館蔵)

新大陸に渡り損ねた15歳の少年は、その後ほぼセビーリャを離れず、64歳まで故郷で描き続けた。

人物のつながり

  • フランシスコ・デ・スルバラン:セビーリャの画壇の先輩。若いムリーリョがその工房で学んだという説もある。のちにムリーリョが人気を奪う形になったが、1659年にはマドリードに移ったスルバランがムリーリョへ手紙を送っている。
  • ディエゴ・ヴェラスケス:同郷の先輩。1658年にはムリーリョがマドリードに滞在したことが文書で確かめられる。
  • トマス・ゲインズバラ:ムリーリョの絵は早くから英国の収集家に好まれた。ゲインズバラが描いた子どもの絵には、ムリーリョの影響があるとされる。

エピソード

15歳、新大陸行きの船を待つ(15歳・1633年)

1633年4月18日、15歳のムリーリョは公証人の前で、自分が死んだときは唯一の財産を姉の娘トマサに譲ると定めた。理由は「近く出航するガレオン船でインディアスのティエラ・フィルメへ旅立つ」からである。財産といっても、父が修道院から借りた生家の改修費を受け取る権利だけだった。当時のセビーリャでは、多くの少年が一旗揚げようと新大陸を目指した。研究者の推測によれば、この年の船団は出航前にカディス湾で多くの船を失い、行き先も変わったため、渡航は流れた。12年後の文書で、彼は初めて「画家」を名乗っている。

画家の名で貸した大金、中身は「覆面」の金(32歳・1650年)

1650年4〜5月、ムリーリョは新大陸へ向かう船団の銀管理役2人に、合わせて9,660ペソ(銀貨)を貸した。売れっ子の画家にも大きすぎる額である。同じ月の27日、彼は公証人のもとで「この金の大半は別人のもの」と認める証書を作った。本当の貸し手は、カディスの官吏、アルカンタラ騎士団の騎士などで、身分や立場から名前を出したくない人々だった。ムリーリョは名義を貸していたことになる。2年後に再び金を貸した相手はその後破産し、ムリーリョは焦げ付きそうな債権を他人に売っている。

隠したのが裏目に(没後・1810年)

1810年、ナポレオン軍がセビーリャに入ると、絵画の大規模な持ち出しが始まった。大聖堂の聖職者会は、ムリーリョの「聖母の誕生」を奪われまいと隠した。ところがそれを知ったスールト元帥は、元の場所に戻させたうえで、執事を通じて「自分のものにしたい」と伝えた。断れば取りに行かせるという。同時代の政治家トレーノ伯によれば、聖職者会は「力ずくで取られるものを、進んで差し出す」ことに決めた。この絵は1852年に元帥の遺族からフランス国家へ渡り、いまもルーヴル美術館にある。

出典・参考資料

  • Wikipedia(es)「Bartolomé Esteban Murillo」(洗礼の日と教会、両親の死、結婚、アカデミーの初会合、カリダードへの入会、パロミーノの伝える死因、1852年のルーヴルの購入とプラド美術館への帰還、英国での人気とゲインズバラへの影響)、Wikipedia(en)「Bartolomé Esteban Murillo」(両親の死の年)、Wikipedia(en)「The Immaculate Conception of Los Venerables」(1813年の持ち出し、1852年の購入、1941年の交換)、EcuRed「Bartolomé E. Murillo」(洗礼日・没日)、patrimoniodesevilla.es「La fundación de la Academia de Dibujo y Pintura de Sevilla」(アカデミーのカサ・ロンハでの創設)、コトバンク「ムリーリョ」(日本語での記述)、人名辞典DB(菱川師宣、八橋検校、ヴェラスケス、スルバラン、クロード・ロラン、井原西鶴の生没年と事績)
  • José Manuel Cruz Valdovinos「Las Indias en la vida y negocios de Murillo」『Laboratorio de Arte』31号(セビーリャ大学、2019年)pp. 303-318(https://institucional.us.es/revistas/arte/31/Art_17.pdf)。1633年4月18日の「carta de cesión de mejoras」、1650年の貸付と5月27日の証書、1652年の貸付とイペニャリエタの破産、1653年7月10日の債権譲渡、1645年2月の「pintor de imaginería」の名乗り、1658年4月30日のマドリードでの委任状、1659年のスルバランの書簡。いずれも Pablo Hereza『Corpus Murillo. Biografía y documentos』(2017年)の文書翻刻を典拠とする
  • Francisco Fernández López「"El nacimiento de la Virgen" de Bartolomé E. Murillo (III): una víctima del expolio artístico del mariscal Soult」(アンダルシア州政府 セビーリャ県歴史文書館、https://juntadeandalucia.es/cultura/archivos_html/sites/default/contenidos/archivos/ahpsevilla/documentos/Victima_de_Soult.pdf)。トレーノ伯『Historia del levantamiento, guerra y revolución de España』(1835〜37年)を引用