ジョン・バンヤン
バンヤン
Bunyan, John
1628年11月28日 – 1688年8月31日 (59歳没)
ジョン・バンヤンの人物情報
イギリスの説教者・作家。ベドフォード近郊、エルストウ教区のハロウデンに生まれ、父と同じ鋳掛屋(鍋や釜の修理職人)として働いた。10代で議会派の軍に入り、除隊して結婚したのち信仰のことで深く悩み、ベドフォードの独立派の教会に加わって説教者となった。1660年の王政復古ののち、許可なく説教したとして逮捕され、約12年を獄中で過ごす。この間に自伝『溢れる恩寵』を書いた。1678年に刊行された『天路歴程』は、巡礼者クリスチャンが「滅びの町」から天の都を目指す寓意物語で、日本でも明治の初めから翻訳されている。
同時代の人物
同じ1628年には、童話集で知られるフランスのシャルル・ペローと、オランダの風景画家ロイスダールが生まれた。4歳下にはフェルメールと哲学者スピノザがいる。
日本では、同じく4歳下の円空が、各地を行脚して仏像を彫り、説教もして回った。集会を巡り歩いて「バンヤン主教」とあだ名された説教者と、旅の仏師が同世代である。
バンヤンが亡くなった1688年、アイザック・ニュートンは45歳で、前年に『プリンキピア』を出したばかりだった。
年齢で見る生涯
日付はDBと同じく当時のイングランドのユリウス暦による(没日はグレゴリオ暦で1688年9月10日)。生まれた日は記録がなく、わかっているのは11月30日の洗礼だけである。
31歳から43歳まで、働き盛りの12年間を獄中で過ごした。代表作が世に出たのは釈放から6年後、49歳のときである。
人物のつながり
エピソード
鐘は撞かない、でも見に行く(20代前半・1650年前後)
若いバンヤンは村の教会の鐘撞きが大好きだった。信仰に目覚めて虚しい楽しみだとやめたものの未練は断てず、鐘楼へ撞くのを眺めに行った。すると「鐘が落ちてきたら」と不安になり、塔を横切る梁の下に立つ。揺れた鐘が壁に跳ね返れば梁も役に立たないと考えて入口まで下がり、最後は「塔ごと崩れたら」と怖くなって逃げ出したと、自伝に書いている。エルストウの教会の鐘楼は本堂と離れて立ち、5番目の鐘はバンヤンが撞いたと信じられて「バンヤンの鐘」と呼ばれる。
「記録にある、記録にあるのだ」(32歳・1661年)
投獄の翌年8月、妻エリザベスは巡回裁判の判事たちに3度目の嘆願をした。夫の有罪は不当だと訴えても、治安判事チェスターは「記録されている」と繰り返すばかり。4人の幼い子のうち1人は目が見えないと聞いた判事ヘイルが「若いのに4人も」と驚くと、彼女は前妻の子らの継母で、結婚して2年足らず、夫の逮捕に動転して早産し、赤子を亡くしたと明かした。「鋳掛屋で貧しいから、正義を受けられないのです」とも言ったが、釈放はかなわなかった。バンヤン自身の記録による。
最後の仕事は親子の仲直り(59歳・1688年)
1688年夏、近所の若者が父親の怒りを買い、相続から外されそうになっていた。仲立ちを頼まれたバンヤンは、馬でバークシャーのレディングまで出向いて父親を説き、息子を許す気持ちにさせた。ところがロンドンへ向かう途中でひどい雨に打たれ、ずぶ濡れで宿に着いて高熱を出す。10日ほど病んだのち、スノーヒルの食料雑貨商ストラドウィックの家で亡くなった。友人を名乗る匿名の筆者が、死後の1692年版『溢れる恩寵』に書き足した続編が伝える話である。
出典・参考資料