ルイ14世
ルイ
Louis XIV
1638年9月5日 – 1715年9月1日 (76歳没)
ルイ14世の人物情報
ブルボン朝第3代のフランス王(在位1643〜1715年)。「太陽王」と呼ばれる。父ルイ13世の死で4歳で即位し、幼少期は宰相マザランが政治を担った。1661年にマザランが亡くなると宰相を置かずに自ら統治し、財務総監コルベールらを使って王権を強めた。宮廷をヴェルサイユ宮殿に移し、貴族を宮廷生活に取り込む一方、対外戦争を繰り返した。1685年にはナントの勅令を廃止し、プロテスタントの国外流出を招いた。在位は72年に及び、ヨーロッパの君主として最長級である。
同時代の人物
ルイ14世が生まれた1638年には、オランダの風景画家ホッベマも生まれている。翌1639年には、のちに王の修史官となる劇作家ラシーヌが生まれた。
日本では、ルイ14世の4歳下にあたる1642年に、浮世草子の井原西鶴と和算家の関孝和が生まれている。1644年には松尾芭蕉が生まれた。西鶴は1693年、芭蕉は1694年に世を去るが、ルイ14世はその後も20年以上王位にあった。
ルイ14世が亡くなった1715年の秋、大坂では近松門左衛門の『国性爺合戦』が初演された。主人公のモデルは鄭成功である。ヴェルサイユで太陽王の治世が終わった年に、日本では大陸を舞台にした芝居が大当たりしていた。
東アジアには、もう一人の長期在位の君主がいた。清の康熙帝が即位したのは1661年2月で、ルイ14世が親政を始めた同年3月とほぼ同じ時期である。1685年、ルイ14世は「王の数学者」と呼ばれたイエズス会士たちを清に送り出し、彼らは康熙帝の宮廷に仕えた。
年齢で見る生涯
息子の王太子(1711年)も孫のブルゴーニュ公(1712年)も、ルイ14世より先に亡くなった。王位を継いだのは5歳の曾孫、ルイ15世である。長すぎる治世は、世代を2つ飛び越える継承で終わった。
人物のつながり
エピソード
王自らが書いた「庭園の回り方」(50〜66歳・1689〜1705年)
ルイ14世は、ヴェルサイユの庭園の見学ルートを自分で書き残している。題は『ヴェルサイユの庭園の見せ方』。1689年から1705年までに6つの版があり、いくつかは王の自筆である。「大理石の中庭の玄関から出て、テラスへ行く。階段の上で立ち止まり、花壇と泉水を眺めること」に始まる25か所の指示には、「ここで一息入れて眺めること(faire une pause)」が何度も出てくる。迷路では「鴨と犬のところまで下りたら引き返す」と、イソップ寓話の噴水の場所まで指定している。噴水をすべて同時に動かすほどの水はなかったため、この道順は噴水係の段取りにも役立ったとされる。
ビリヤードの腕で大臣になった男(61歳・1699年)
ルイ14世はビリヤードが大好きで、冬の夜はほぼ毎晩、廷臣たちと台を囲んだ。サン=シモンの回想録によれば、パリにうまい男がいると聞いた廷臣たちが実際に手合わせしてみて感心し、王に推薦した。これが高等法院の一評定官、ミシェル・シャミヤールである。控えめな人柄が王に気に入られ、1699年には財務総監に抜擢された。1701年からは陸軍卿も兼ねるが、スペイン継承戦争の苦境のなかで失脚する。当時は「ビリヤードでは英雄、大臣としてはゼロ」とからかう墓碑銘ふうの戯れ歌が出回った。
「朕は国家なり」ではなく「国家は永遠に残る」(76歳・1715年)
日本でもよく知られる「朕は国家なり(L'État, c'est moi)」は、同時代の書簡・公文書・証言には見当たらない。活字に現れるのは死後70年以上たったフランス革命期で、今日では後世の作り話とされる。一方、1715年8月、脚の壊疽で死を悟った王が廷臣たちに告げた言葉は、側近ダンジョー侯爵が書き留めている。「私は去る。だが国家は常に残る。国家に忠実であれ」。曾孫には「私は戦争を好みすぎた」と語ったとも伝えられるが、その文言は記録によって違いがある。
出典・参考資料