カール12世
カール
Karl XII
1682年6月27日 – 1718年12月11日 (36歳没)
カール12世の人物情報
スウェーデン王。14歳で即位し、1700年に始まった大北方戦争では、18歳でナルヴァの戦いに大勝するなど、デンマーク、ザクセン=ポーランド、ロシアを相手に勝ち続けた。しかし1709年、ロシア遠征の末にポルタヴァの戦いでピョートル1世に大敗し、オスマン帝国領に逃れて5年あまりを過ごす。帰国後もノルウェーに攻め込み、1718年、フレドリクステン要塞の包囲中に頭を撃たれて36歳で死んだ。生涯独身で、王位は妹ウルリカ・エレオノーラが継いだ。長い戦争で多くの兵と国力を失ったスウェーデンは、1721年のニスタット条約でバルト海の大国の座から降りた。
同時代の人物
カールが生まれた1682年(天和2年)、大坂では井原西鶴の『好色一代男』が刊行された。J.S.バッハ(DB名ヨハン・セバスチャン・バッハ)とヘンデルは3歳下、ヴィヴァルディは4歳上。日本の禅僧白隠慧鶴も3歳半ほど年下の同世代である。
王が死んだ1718年、宿敵のピョートル1世は46歳、清の康熙帝は64歳、ニュートンは75歳だった。
年齢で見る生涯
日付はスウェーデンで使われていた暦による(1700〜12年は独自の「スウェーデン暦」、それ以外はユリウス暦)。
在位21年のうち、ストックホルムで過ごしたのは最初の3年だけだった。17歳で都を出てから、生きて戻ることはなかった。
人物のつながり
エピソード
「カラバリク」——撤回の命令は間に合わなかった(30歳・1713年)
ポルタヴァの敗戦後、王はオスマン帝国領ベンデル(現モルドバ)の近くに宿営を構え、3年半も居座った。帰国を促すスルタンの申し出も断り続け、1713年2月1日、ついにイェニチェリとタタール兵が宿営を襲った。王は45人ほどで木造の館に立てこもり、火をかけられると拳銃と剣を手に中庭へ飛び出したが、自分の拍車に足をとられて転び、捕らえられた。じつはスルタンは直前、北ドイツでのスウェーデン軍の勝利を聞いて考えを変え、手出し無用の新しい命令を出していた。その使者が着いたのは、騒ぎが終わった2月1日の夕方だったという。
国王が考えた「64進法」(34〜36歳・1716〜18年)
帰国した王は南部のルンドに本営を置き、28歳の技術者スヴェーデンボリ(のちの神秘思想家)や発明家ポルヘムと数学の話をした。王が持ち出したのは、10ではなく64で桁が上がる数え方である。64は4の3乗で、8の2乗でもあり、半分にし続けても1まで割り切れる。スヴェーデンボリの回想では、王は一、二日で、自分の名の文字に似た64の数字と呼び名を作ってしまった。ただ、64進法では4096でやっと3桁になり、計算は恐ろしく面倒になる。スヴェーデンボリは扱いやすい8進法の論文を1718年秋にまとめて王に献じたが、出版はされなかった。手紙では、王との話は「数学の冗談や代数のなぞなぞばかり」だったとこぼしている。
「水しか飲まない王」は本当か(18〜36歳・1700〜18年)
カール12世は強い酒を断ち、「きれいな水」だけを飲んだと長く語られ、19世紀にはスウェーデンの禁酒運動にも影響を与えた。たしかに1700年ごろ、スウェーデン語に通じた英国の外交官ロビンソンは、若い王は「ごくまれにしかワインを飲まない」と書き残した。ところが『スウェーデン人名辞典』によれば、戦地まで王に従った宮廷の会計簿には、洗練された料理とたっぷりのワインが記録されている。王自身も、当時としては控えめながら、ワインやビールを確かに飲んでいた。ただし、王になってから酔っていたという証言は見つかっていない。
出典・参考資料