ピョートル1世
ピョートル
Pyotr I
1672年6月9日 – 1725年2月8日 (52歳没)
ピョートル1世の人物情報
ロシアのツァーリで、初代ロシア皇帝である。10歳で即位し、20代半ばには身分を隠して西欧を回り、オランダの造船所で自ら船大工として働いた。帰国後は軍隊、行政、暦、文字、服装まで西欧式に改め、スウェーデンとの大北方戦争に勝ってバルト海への出口を得た。新都サンクトペテルブルクを築き、1721年に「皇帝」を名乗った。改革は重税と強制労働、反対派への苛烈な処罰を伴い、皇太子アレクセイも獄中で死なせている。
同時代の人物
ピョートルが生まれた1672年は、日本では寛文12年にあたる。琳派の尾形光琳は14歳年上だ。1703年、ピョートルがネヴァ川の河口でサンクトペテルブルクの建設を始めた年に、大坂では近松門左衛門の『曾根崎心中』が初演された。近松が亡くなったのは1725年1月6日(享保9年11月22日)で、ピョートルが世を去るわずか1か月ほど前だった。
5歳上のジョナサン・スウィフトが『ガリヴァー旅行記』を出したのは、ピョートルの死の翌年である。バッハとヘンデルは13歳下。清の康熙帝とは、ピョートルが姉ソフィアから実権を奪った1689年にネルチンスク条約を結んでいる。
年齢で見る生涯
43年の在位のうち21年が大北方戦争だった。10歳下のカール12世に一度大敗しながら、長期戦のあいだに国ごと作り変えて勝ったことになる。
人物のつながり
エピソード
「お前の頭はどこにある」。博物館の入場料を拒む(42〜46歳・1714〜18年の間)
側近の旋盤工ナルトフの回想によれば、オランダで買い集めた標本を見ていたピョートルに、重臣ヤグジンスキーが見物料を取ろうと提案した。皇帝は不機嫌に「パーヴェル・イヴァノヴィチ、お前の頭はどこにある。私は人々に見て学んでほしいのだ。好奇心のある者は、金を取るのではなく、もてなして慣れさせるべきだ」と答え、もてなし用の予算まで付けたという。後のシュテーリンの逸話集では、振る舞いはコーヒーやウォッカになっている。ロシア最初の博物館クンストカメラは、こうして無料で始まった。
皇帝みずから新しい文字を校正する(37歳・1710年)
それまでロシアの本は、教会スラヴ文字で刷られていた。ピョートルは世俗の本のために、形を単純にした「民用文字」を作らせた。1710年1月、彼は見本刷りの『民用アルファベット』に自らペンを入れた。古い字形や、ギリシャ文字由来のクシー、プシーなどを線で消し、余白に「これらの文字で歴史書と技術書を刷れ。線を引いた文字は使うな」と書き込んでいる。現在のロシア語の字形の出発点となった一冊である。一部の文字は、聖職者の求めで後に戻されたといわれる。
旋盤部屋の貼り紙(51歳・1724年)
ピョートルは生涯、旋盤で象牙や木を削るのを好み、旋盤部屋を書斎代わりにしていた。ナルトフの回想では、晩年のある日、寵臣メンシコフが押し入ろうとしたのをナルトフが扉を閉めて止め、「覚えておけ」と脅された。そのときシャンデリアを削っていた皇帝は笑い、その場で旋盤の上で札を書いた。「命じられていない者、呼ばれていない者は、この家の召使いであっても入ってはならない。主人がここでくらいは落ち着いていられるように」。国を力ずくで動かした皇帝にも、一人になれる場所が必要だったらしい。
出典・参考資料