エカチェリーナ2世
エカチェリーナ
Yekaterina II
1729年5月2日 – 1796年11月17日 (67歳没)
エカチェリーナ2世の人物情報
ロシアの女帝で、在位は1762年から1796年まで。ドイツの小領邦の公女として生まれ、14歳でロシアに渡って皇太子ピョートル(のちのピョートル3世)と結婚した。1762年、近衛連隊の支持を得て夫を廃し、自ら帝位に就く。啓蒙思想家と文通し、法典編纂のための『訓令』を書く一方、農奴制はかえって強まった。露土戦争でクリミアを併合し、ポーランド分割にも加わって領土を大きく広げたことから「大帝」と呼ばれる。
同時代の人物
1729年生まれの同い年には、ドイツの劇作家レッシングがいる。どちらもドイツ生まれで、一方は啓蒙思想を舞台で語り、もう一方は玉座から取り入れようとした。
日本では、国学者の本居宣長が1歳下、蘭方医の杉田玄白が4歳下、平賀源内が1歳上である。『解体新書』が出た1774年、エカチェリーナはプガチョフの乱の鎮圧に追われていた。
アメリカ初代大統領のワシントンと作曲家のハイドンは3歳下。25歳下のルイ16世が処刑された1793年にも、エカチェリーナはまだ帝位にあった。
年齢で見る生涯
34年の在位はロシアの女帝のなかで最も長い。異国から来た16歳の花嫁が帝位に就くまで17年かかり、そこから60代の終わりまで国を動かし続けた。
人物のつながり
エピソード
「まず私が」――天然痘の予防接種(39歳・1768年)
人痘接種(天然痘の膿を少量植える予防法)は、当時のロシアでは怖がられていた。エカチェリーナはイギリスから名医ディムズデールを招き、1768年10月、ひそかに自分の腕に接種させる。膿を提供したのは6歳の少年アレクサンドル・マルコフだった。女帝が無事に回復すると、少年は貴族に列せられ、「オスペンヌイ(天然痘の)」という姓と、腕を描いた紋章を与えられた。万一に備え、医師を逃がす馬車も用意されていたという。
エルミタージュの「十か条」(40〜50代・1770〜80年代頃)
エルミタージュで開いた内輪の夜会には、女帝自作と伝えられる規則が掲げられていた。「身分は帽子と、とりわけ剣と一緒に扉の外に置いていくこと」「議論は腹を立てずに」「ため息もあくびもしないこと」「おいしく食べ、飲むのはほどほどに。帰りに自分の足で扉までたどり着けるように」。違反した者は冷たい水を1杯飲み、トレジアコフスキーの長編詩『テレマキダ』を1ページ朗読する罰を受けた。退屈で知られた詩である。
ペテン師カリオストロを喜劇で笑いものに(55〜56歳・1785年)
自称「錬金術師」のカリオストロ伯爵は、1779〜80年にペテルブルクに滞在して社交界を騒がせたが、女帝は相手にしなかった。1785年、彼女は喜劇『ペテン師』を書く。登場するのは「カリファルクジェルストン」という怪しげな人物で、モデルがカリオストロなのは明らかだった。続けて神秘主義にはまる人々を笑う喜劇も2本書いている。ゲーテがカリオストロを題材にした喜劇『大コフタ』を書いたのは1791年で、女帝のほうが6年早い。
※死因を馬と結びつける俗説は根拠のない中傷である。実際の死因は脳卒中。
出典・参考資料