マリア・テレジア

マリア・テレジア

Maria Theresia

1717年5月13日 – 1780年11月29日 (63歳没)

オーストリア 王侯

マリア・テレジアの人物情報

ハプスブルク家の君主で、オーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王を兼ねた。1740年、父カール6世の急死を受けて23歳で家督を継いだが、女性の相続に異を唱えるバイエルンや、領土を狙うプロイセンなどに攻め込まれ、オーストリア継承戦争を戦い抜いた。夫フランツ・シュテファンが皇帝フランツ1世となったため、正式な称号は「皇后」だが、実際の統治者として「女帝」と呼ばれる。行政や軍の改革、義務教育の導入を進め、16人の子を産んだ。末娘はフランス王妃マリー・アントワネットである。

同時代の人物

マリア・テレジアが生まれた1717年の前年、1716年には、京都で伊藤若冲が、大坂近郊で与謝蕪村が生まれている。ウィーンの宮廷で「女帝」が戦争と改革に追われていたころ、同世代の2人は日本で絵筆をとっていた。

音楽家では、宮廷で子どもたちの音楽教師も務めたグルックと、カール・エマヌエル・バッハが3歳上、レオポルト・モーツァルトが2歳下である。生涯の宿敵フリードリヒ2世は5歳上だった。

マリア・テレジアが亡くなった1780年には、1月に平賀源内が獄中で世を去っている。2年前の1778年にはヴォルテールが亡くなった。

年齢で見る生涯

  • 18歳(1736年) ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚。当時の王家には珍しい恋愛結婚だった
  • 23歳(1740年) 父カール6世が急死し、家督を継ぐ。直後にフリードリヒ2世がシュレージエンに侵攻
  • 24歳(1741年) プレスブルク(現ブラチスラヴァ)でハンガリー女王として戴冠
  • 28歳(1745年) 夫が神聖ローマ皇帝フランツ1世に選ばれる
  • 39歳(1756年) 16人目の子マクシミリアン・フランツを出産。同じ年に七年戦争が始まる
  • 48歳(1765年) 夫が急死。長男ヨーゼフ2世を共同統治者とし、以後は生涯喪服で過ごす
  • 57歳(1774年) 一般学校令を出し、義務教育を導入
  • 63歳(1780年) ウィーンで死去

19歳から39歳までの20年間に16人の子を産み、そのうち13人は23歳で即位したあと、戦争を指揮しながらの出産だった。統治者の仕事と出産が、ほぼ毎年重なっていたことになる。

人物のつながり

  • フリードリヒ2世:即位直後にシュレージエンを奪った宿敵。取り戻すために七年戦争を戦ったが、果たせなかった。
  • ヨーゼフ2世:長男。1765年から共同統治者となった。改革を急ぐ息子と慎重な母は、たびたび対立した。
  • ルイ16世:娘マリー・アントワネットの夫。1770年の結婚は、長年敵対してきたフランスとの同盟を固めるための縁組だった。
  • モーツァルト:1762年、6歳のモーツァルトがシェーンブルン宮殿で御前演奏をした。父レオポルトの手紙によれば、少年は女帝の膝に飛び乗り、首に抱きついてキスをしたという。一方で1771年、息子のフェルディナント大公がモーツァルトを召し抱えようとした際には、「乞食のように世間を渡り歩く役に立たない人々」を雇わないよう手紙で忠告している。どちらも日本でよく知られた話である。マリー・アントワネットに「お嫁さんにしてあげる」と言ったという話は、後の時代の伝聞で、確かな記録はない。

エピソード

女性だけの騎馬試合を催す(25歳・1743年)

1743年1月2日、マリア・テレジアはウィーンの宮廷の冬季乗馬学校で「貴婦人カルーセル」を催した。前年末にプラハを奪い返したことを祝う行事で、ふつうは男性貴族が腕を競う騎馬試合を、女官たちとともに自ら先頭に立って行ったのである。馬に乗り、また金の貝殻形の馬車に乗って隊列を組み、棒の先に立てた人形の頭を剣で突く技を競った。終わると一行はそのままウィーンの街を馬車で回り、市民に晴れ姿を見せた。この時の馬車は8台のうち1台だけが残り、美術史美術館に所蔵されている。

結婚生活を「25万8744時間」と書き残す(48歳・1765年)

1765年8月18日、夫フランツ・シュテファンがインスブルックで急死した。マリア・テレジアは髪を短く切り、この日から生涯喪服を脱がなかった。彼女の死後、愛用の祈祷書から1枚のメモが見つかった。結婚式の日から夫が亡くなった日までを数え上げたもので、「29年6か月6日、つまり29年、335か月、1540週、10781日、25万8744時間」と書かれていた。政略が当たり前だった王家の結婚で、彼女にとって夫がどれほど大きな存在だったかがうかがえる。臨終の床では、夫の部屋着をはおっていたという。

ウィーンの家に番号を付け、宮殿は「1番」(53歳・1770年)

1770年、マリア・テレジアは領内の全住民を数える「人口調査」を命じた。目的は新しい徴兵制度の準備で、兵役に就ける男性を把握するためである。調査に合わせて、家々の壁に番号が書き込まれた。ウィーンでは1770年10月から翌年5月にかけて、市内の1340軒と郊外の3615軒に番号が振られた。市内の1番は、女帝の住まいであるホーフブルク宮殿だった。番号は建てられた順に振られたため道案内には向かなかったが、翌年1月には新聞の売家広告に早くも使われている。

出典・参考資料

  • Wikipedia「マリア・テレジア」、Die Welt der Habsburger(habsburger.net)「Keine Königin ohne Krone – Maria Theresias Herrschaftsantritt」
  • Kunsthistorisches Museum「Vergoldeter Karussellwagen Maria Theresias」、Die Welt der Habsburger「Das Damenkarussell am 2. Januar 1743 in der Hofreitschule」、Schloss Schönbrunn「Karussellzimmer」(貴婦人カルーセル)
  • Die Welt der Habsburger「Maria Theresias letzte Jahre: Witwenschaft und Tod」(祈祷書のメモ)
  • Wien Geschichte Wiki「Erste Häusernummerierung」(家屋番号)
  • 人物のつながり(モーツァルト):レオポルト・モーツァルトのハーゲナウアー宛書簡(1762年10月16日)、マリア・テレジアのフェルディナント大公宛書簡(1771年12月12日)