ヨーゼフ2世
ヨーゼフ
Joseph II
1741年3月13日 – 1790年2月20日 (48歳没)
ヨーゼフ2世の人物情報
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位1765〜90年)。マリア・テレジアの長男で、1765年に父フランツ1世が亡くなると皇帝となり、母の共同統治者を務めた。1780年に母が亡くなってからの10年間は単独で統治し、宗教寛容令、農奴制の廃止、修道院の整理、ドイツ語による行政の統一など、上からの改革を矢継ぎ早に進めた。啓蒙専制君主の代表とされるが、急な改革は貴族や聖職者、ハンガリーやネーデルラントの反発を招いた。死の直前に多くの改革を撤回し、48歳で亡くなった。
同時代の人物
ヨーゼフが生まれた1741年3月13日のちょうど1週間後、パリで彫刻家のウードンが生まれている。1歳上にはマルキ・ド・サド、2歳下にはジェファーソン、5歳下にはゴヤがいる。
日本では、8歳上の杉田玄白と円山応挙が同世代にあたる。ヨーゼフが亡くなった1790年には、本居宣長の『古事記伝』の刊行が始まった。
年齢で見る生涯
単独で統治したのは39歳から48歳までの10年足らずである。そして最後の1か月で、改革の多くを自ら取り消した。
人物のつながり
エピソード
馬車が止まった道端で、皇帝が畑を耕す(28歳・1769年)
1769年8月19日の夕方、モラヴィアのブルノ近郊を進んでいた皇帝の馬車が、車軸の故障で止まった。ヨーゼフは近くの畑に歩いていき、農夫アンドレアス・トルンカの下男ヤン・カルトシュから鋤を借りると、自ら2本の畝を耕したと伝えられる。フリードリヒ2世との会見に向かう途中の出来事だった。村人はこの鋤を聖遺物のようにあがめ、のちにモラヴィア州議会の建物に納められた。いまはブルノのモラヴィア博物館にある。畑には記念碑が5回も建てられ、鋤を握る皇帝はメダルや絵画、紙幣にまで描かれた。
ヴォルテールの館の前を素通り(36歳・1777年)
フランスからの帰り道、皇帝一行は7月にジュネーヴ近郊を通った。そこには82歳のヴォルテールが住んでいる。「理性の皇帝」と啓蒙思想の大御所の対面を、誰もが期待していた。ところがヨーゼフは直前になって馬車を先へ進めさせ、「詩人はキリスト教徒でもある方が好ましい」と語ったと伝えられる。フリードリヒ2世はダランベールへの手紙で、皇帝は港や工場は見て回ったのにヴォルテールには会わなかった、自分なら老大家に一目会っていくのに、とあきれている。ヴォルテールは翌年に亡くなり、2人が会うことはなかった。
底が開く棺と、皇帝の捨てぜりふ(43歳・1784〜85年)
1784年夏、ヨーゼフは新しい埋葬令を出した。遺体は裸のまま亜麻布の袋に縫い込み、底が開く共用の木棺で墓地まで運ぶ。墓穴の上で留め金を外して遺体だけを落とし、棺は次の葬儀に使い回す。木材の節約と衛生のためだったが、立派な葬儀を重んじるウィーン市民は激しく反発した。翌1785年初め、皇帝は命令を引っ込める。その際、「生きている者の考えはいまだに物質的で、死後に体がゆっくり腐り、長く臭い屍でいることに限りない値打ちを置く。どう葬られたいかなど、私にはどうでもよい」と書き捨てた。皇帝自身は、両親の豪華な棺と同じ墓所に、質素な銅の棺で眠っている。
出典・参考資料