杉田玄白
スギタゲンパク
Sugita, Genpaku
1733年10月20日 – 1817年6月1日 (83歳没)
杉田玄白の人物情報
日本の蘭方医。1733年(享保18年)小浜藩(福井県)の藩医の子として江戸に生まれる。幕府の奥医師西玄哲にオランダ医学を学び、1753年に藩医となる。
1771年小塚原で刑死体の腑分けを見学し、オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚く。前野良沢らとともに同書を4年かけて翻訳し、1774年『解体新書』として刊行。晩年には回想録を『蘭学事始』として記している。
同時代の人物
玄白が生まれた1733年には、京都で絵師の円山応挙も生まれている。応挙のほうが4か月ほど年上である。5歳上には平賀源内、3歳上には国学の本居宣長、1歳下には『雨月物語』の上田秋成がいる。オランダの解剖書と格闘した玄白と、『古事記』を読み解いた宣長は、ほぼ同じ世代だった。
海外では、ジョージ・ワシントンとハイドンが1歳上にあたる。種痘のジェンナーが少年に牛痘を植えた1796年、玄白は数え64歳だった。玄白が亡くなった1817年の夏には、イギリスでジェイン・オースティンも世を去っている。
年齢で見る生涯
年齢はすべて数え年。『解体新書』を出したのは42歳で、そこから人生がさらに40年以上続いた。晩年の玄白は、自分たちの苦労が忘れられないうちに書き残そうと、83歳で筆をとっている。
人物のつながり
エピソード
死んだと思われ、脇に置かれた赤ん坊(1歳・1733年)
玄白の誕生はひどい難産だった。1869年刊の『蘭学事始』に付いた略伝によれば、母は玄白を産んですぐに亡くなった。周りの人々は母を救おうと手を尽くし、赤ん坊にかまう余裕はなかった。難産で生まれた子は助かるまいと、布にくるんで寝床の脇に置いておいた。ところが、ふと振り返ると、まだ息がある。抱き上げてみると男の子で、一同はようやく眉を開いたという。この略伝は、曾孫の杉田玄端が弟子の大槻玄沢の記録をもとに書いたものである。85歳まで生きた人物は、命の危うい出発をしていた。
「フルヘッヘンド」は本当にあったのか(39〜42歳・1771〜74年)
翻訳を始めた当初、玄白はアルファベットさえ読めなかった。『蘭学事始』によれば、仲間とともに「艪舵なき船の大海に乗出せしが如く」途方に暮れたという。鼻の説明に「フルヘッヘンド」という語が出てきて、一同は行き詰まった。良沢の小さな辞書に、木の枝を切った跡や、庭を掃いて集まった塵土が「フルヘッヘンド」するとある。そこで玄白は「うづたかし」の意味だと気づき、「堆」と訳すことに決まった。ところが、もとの解剖書の鼻の項にはこの語が見当たらない。そのため、この話は玄白の記憶違いではないかといわれている。40年以上たってからの回想である。
「九つの幸せ」を名乗った老人(83歳・1815年)
玄白は晩年、「九幸」と号した。『蘭学事始』の結びにも「八十三齢九幸翁」と署名している。緒方富雄の注釈によれば、九つの幸せとは、泰平の世に生まれたこと、都で育ったこと、身分の上下を問わず人と交わったこと、長生きしたこと、禄を得たこと、ひどく貧しくはならなかったこと、名が世に知られたこと、子や孫が多いこと、老いてなお元気なことである。どれも、大きな理想を掲げるものではない。死にかけて生まれた赤ん坊が、80代になって自分の人生を数え上げると、こうなったのである。
出典・参考資料