フランシスコ・デ・ゴヤ

フランシスコ・デ・ゴヤ

ゴヤ

Goya y Lucientes, Francisco José De

1746年3月30日 – 1828年4月16日 (82歳没)

スペイン 絵画

フランシスコ・デ・ゴヤの人物情報

スペインの画家、版画家。アラゴン地方の寒村フエンデトドスに生まれ、サラゴサで修業した。マドリードの王立タペストリー工場の下絵描きから身を起こし、1786年に国王付き画家、1799年に首席宮廷画家となる。1792年の大病で聴力を失った後、版画集『ロス・カプリーチョス』で社会の悪弊を風刺した。ナポレオン軍の侵攻で始まった半島戦争(スペイン独立戦争)では、『1808年5月3日』や版画集『戦争の惨禍』で戦争の残虐を描いている。晩年はマドリード郊外の家の壁に「黒い絵」を描き、1824年にフランスのボルドーへ移って、その地で没した。

同時代の人物

ゴヤの3歳上には、イタリア出身の作曲家ボッケリーニがいる。マドリードに移り、後にゴヤと同じ親王に仕えた。2歳下のジャック・ルイ・ダヴィドは、ナポレオンの首席画家として皇帝の栄光を描いた。同じナポレオンの戦争を、ゴヤは侵攻された側の犠牲から描いている。

日本では、1歳下の司馬江漢が1783年に日本初の腐食銅版画(エッチング)「三囲景」を作った。ゴヤがエッチングを駆使した『ロス・カプリーチョス』を出すのは、その16年後である。ゴヤが亡くなる27日前には、江戸で洋画家の高橋由一が生まれている。

年齢で見る生涯

  • 17〜20歳(1763〜66年) 王立サン・フェルナンド美術アカデミーの奨学生選考と絵画賞に挑むが、2度とも落選
  • 46歳(1792年) 年末に大病にかかり、聴力を失う
  • 52〜53歳(1799年) 版画集『ロス・カプリーチョス』を売り出す。同じ年に首席宮廷画家となる
  • 64〜69歳(1810〜15年) 版画『戦争の惨禍』を制作。生前は刊行されず、初版は没後の1863年
  • 72歳(1819年) マドリード郊外に「聾者の家」を買う。のちにその壁に「黒い絵」を描く
  • 78歳(1824年) フランスのボルドーへ移る
  • 82歳(1828年) 4月16日未明、ボルドーで死去
  • 没後(1888年) 墓を開くと、遺骨には頭蓋骨がなかった。遺骨は1899年にマドリードへ戻り、1919年からサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂に眠る

『ロス・カプリーチョス』も『戦争の惨禍』も「黒い絵」も、聴力を失った46歳より後、50代以降の仕事である。

人物のつながり

  • ボッケリーニ:ドン・ルイス親王付きの音楽家。1783年と84年の夏、アレナス・デ・サン・ペドロの親王の館でゴヤと同じ時期を過ごした。
  • ナポレオン・ボナパルト:1808年に兄ジョゼフをスペイン王に据え、半島戦争を招いた。ゴヤは処刑や飢餓、戦争の残虐を版画『戦争の惨禍』に刻んだ。
  • ウェリントン(DB名アーサー・ウェルズリー):1812年8月にマドリードに入城した英軍の司令官。ゴヤはこの年に肖像を描き始め、1814年に軍服を描き改め、その間に授かった金羊毛勲章などを描き足した(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。

エピソード

親王いわく「この絵描きめ、わしより狩り好きだ」(37歳・1783年)

1783年の夏、ゴヤは国王の弟ドン・ルイス親王に招かれ、アビラ県アレナス・デ・サン・ペドロの館で約1か月過ごし、一家の肖像を描いた。9月20日付で親友サパテールに宛てた手紙は自慢話であふれている。親王と2度狩りに出て、ウサギを撃った場面で「このへぼ絵描き(pintamonas)め、わし以上の狩り好きだ」と言われた。千ドゥーロと、妻への金銀の部屋着を贈られ、「せめて毎年来るように」と言われたという。もっとも翌年の滞在では、宿は宮殿ではなく隣の使用人用の建物だった。

試乗中に「ナポリ式に回しましょうか」(40歳・1786年)

売れっ子になったゴヤは、英国式の軽い二輪馬車を90ドブロンで買う話をほぼまとめていた。「マドリードに同じものは3台しかない」自慢の品である。7月25日、ナポリ人の馬の持ち主と試乗に出て、郊外で疾走した。相手が「ナポリ式にくるりと回してみせましょうか」と言うので、新しい技を覚えたいゴヤは手綱を渡した。結果、馬車も馬も二人も転げ回る。8月1日付の手紙では、右足首を痛めて外出できないとこぼしながら、国王付き画家に任命され、年1万5千レアルを得たことも得意げに報告している。

78歳で始めた象牙の細密画(78〜79歳・1824〜25年)

1825年12月20日、亡命先のボルドーから友人フェレールへ宛てた手紙に「昨冬は象牙に描き、40点近い試作がある」と書く。点を打って描く普通の細密画とは違い、「メングスよりベラスケスの筆に近い」ものだという。初期の伝記作者マトゥロンによれば、数センチ角の象牙板を黒く塗って水滴を落とし、にじんだ白い跡から奇妙な人物を描き起こした。同じ手紙には「目も、手の確かさも、ペンも、インク壺もない。何もかも足りないが、意志だけは余っている」との一節もある。現存するのはその一部である。

出典・参考資料

  • Wikipedia(es)「Francisco de Goya」「Goya en Burdeos (1824-1828)」、Wikipedia「フランシスコ・デ・ゴヤ」、Real Academia de la Historia「Francisco de Goya y Lucientes」(Historia Hispánica、生没年月日・生没地)、Museo de Zaragoza『Biografía de Francisco de Goya』(http://www.museodezaragoza.es/wp-content/uploads/2021/03/cuaderno-goya-2_0.pdf)、Artigrama「El factor Bayeu en la formación de Goya」(サラゴサ大学、アカデミーの落選)、The National Gallery「The Duke of Wellington」(NG6322)、文化遺産オンライン「三囲景」(司馬江漢)、Fundación Juan March「Boccherini y Goya: Cuarteto G 191 y La familia del infante don Luis」、El Debate「El misterio del cráneo de Goya」(2026年6月3日、遺骨の発掘と移送)
  • ゴヤのサパテール宛て書簡 1783年9月20日付(プラド美術館蔵)。Palacio de Boadilla「Las cartas de Francisco de Goya」(https://palaciodeboadilla.es/las-cartas-de-francisco-de-goya/)の引用で確認
  • ゴヤのサパテール宛て書簡 1786年8月1日付(Canellas編『Diplomatario』による本文。Cartas de la Historia「Cartas de Francisco de Goya」http://cartasfamosas.blogspot.com/2011/03/cartas-de-francisco-de-goya.html の転載で確認)
  • ゴヤのホアキン・マリア・フェレール宛て書簡 1825年12月20日付。Agente Provocador「«Aún aprendo»: un artista experimental llamado Goya」、Alfa y Omega「Goya: «Solo la voluntad me sobra»」(プラド美術館の素描展 2019〜20年の題名の由来)
  • Wikipedia(es)「Goya en Burdeos (1824-1828)」(マトゥロンの記述、現存点数)