フランソワ・ジェラール

フランソワ・ジェラール

ジェラール

Gérard, François

1770年5月4日 – 1837年1月11日 (66歳没)

フランス 絵画

フランソワ・ジェラールの人物情報

フランスの画家。1770年、ローマに生まれ、12歳のころ家族とパリへ移った。ジャック・ルイ・ダヴィドの工房で学び、1795年のサロンに出した「ベリサリウス」と1798年の「プシュケとアモル」で名を上げる。その後は肖像画で大成功し、ナポレオンの一族や各国の王侯、パリ社交界の名士を数多く描いた。帝政期には戦争画「アウステルリッツの戦い」も手がけている。王政復古後は「アンリ4世のパリ入城」(1817年)でルイ18世の首席画家となり、「王たちの画家にして画家たちの王」と呼ばれた。1837年、パリで没した。

同時代の人物

1770年は、ドイツ語圏とイギリスで大物が続けて生まれた年である。3月に詩人のヘルダーリン、4月にワーズワース、5月にジェラール、12月にベートーベンが生まれた。肖像を描いたナポレオン・ボナパルトは9か月年上で、皇帝と宮廷画家はほぼ同い年だった。

同じダヴィドの門下では、アントワーヌ・ジャン・グロが翌1771年3月の生まれで、ナポレオンの戦場画を競って描いた。日本では、江戸の絵師谷文晁が6歳半ほど年上にあたる。

年齢で見る生涯

  • 15〜16歳(1786年) ダヴィドの工房に入る
  • 23歳(1793年) 徴兵を逃れるため、ダヴィドの口利きで革命裁判所の陪審員に名を連ねる
  • 25歳(1795年) サロンに「ベリサリウス」を出品し、評判を得る
  • 28歳(1798年) 「プシュケとアモル」をサロンに出品。制作中にふさぎ込み、工房の鍵を通りに投げ捨てたこともあったと、弟子ゴドフロワは回想している
  • 34〜35歳(1805年) 「レカミエ夫人の肖像」を描く
  • 40歳(1810年) 1806年に注文を受けた「アウステルリッツの戦い」を、予定より遅れてサロンに出す
  • 46〜47歳(1817年) 「アンリ4世のパリ入城」をサロンに出し、国王の首席画家となる
  • 66歳(1837年) 1月11日、パリの自宅で死去

甥の伝記によれば、1800年から1815年までの15年間、つまり30歳から45歳の間に、全身像50点と胸像40点の肖像を仕上げた。皇帝が代わり、王が戻っても、注文は途切れなかった。

人物のつながり

  • ジャック・ルイ・ダヴィド:師。1793年、兵役に取られかけた弟子を、革命裁判所の陪審員名簿に入れて救った。
  • イザベイ:細密画家で若いころからの友人。1795年、売れなかった「ベリサリウス」を100ルイで買い取り、自分のアトリエに飾った。オランダ大使が6000フランで買いたいと言うと、イザベイはこれを売り、差額をそっくりジェラールに渡したという。
  • スタール夫人:没後の1819年、プロイセンのアウグスト王子が「スタール夫人の思い出を芸術に残したい」と、小説『コリンヌ』の場面を1万8000フランで注文した。仲介したのはレカミエ夫人である。
  • アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル:スタール夫人の友人。フンボルトから、水曜のジェラールの夜会に誘われた短い手紙が残る。1827年の手紙では、ジェラールを「当代で最も名高い画家」と呼んでいる。

エピソード

松葉杖を小脇に抱えて(23〜24歳・1793〜94年)

陪審員を務めた革命裁判所は、恐怖政治の時代に多くの人を処刑台へ送った法廷で、王妃マリー・アントワネットもここで死刑を言い渡された。ジェラールは病気を装い、法廷にほとんど出なかった。伝記作家ルノルマンが伝える話では、ある日ジェラールは誰も見ていないと思い、松葉杖を脇に抱えたままルーヴルの階段を上っていた。そこへ女性が現れる。立ちすくむ彼に、女性は「ご安心を、告げ口はしません」と言ったという。甥の伝記は、出席は2回だけで、どちらも無罪判決だったとする。ただし、これは身内の側の記録である。

朝7時に起きたのに、皇帝に会えず(36歳前後・1806年頃)

「アウステルリッツの戦い」の下絵を見せるため、ジェラールは建築家フォンテーヌとサン=クルー宮へ出かけた。弟子ゴドフロワの回想によれば、朝7時に起きるという「超人的な努力」をしたのだという。ところがナポレオンは約束の時刻になっても現れない。苛立つジェラールをなだめようと、フォンテーヌは彼を横にならせて時間を稼いだ。それでも皇帝の手は空かず、ジェラールは馬車に乗って帰ってしまった。ゴドフロワは、師が待つことのできない人だったと書いている。

「水曜会」の日に世を去る(66歳・1837年)

ジェラールは30年以上、毎週水曜の夜にパリの自宅でサロンを開いた。スタンダールや博物学者のキュヴィエ、フンボルトが通い、ドラクロワ(DB名ウージェーヌ・ドラクロワ)は対立するアングル(DB名ドミニク・アングル)とここで挨拶を交わした。ロッシーニがピアノを弾き、真夜中に茶が出た。1837年1月11日、ジェラールは水曜日の朝に亡くなる。夜、いつものように訪ねてきた友人たちに、老いた召使いは「男爵様は今朝お亡くなりになりました」と告げたという。

出典・参考資料

  • Wikipédia(fr)「François Gérard」、Wikipedia「フランソワ・ジェラール」、Larousse「François, baron Gérard」(サロン出品年、首席画家、「peintre des rois et roi des peintres」)、POP(Joconde)「Psyché et l'Amour」(INV 4739、Salon 1798)、Fondation Napoléon(napoleon.org)「La bataille d'Austerlitz」、Wikipedia(en)「Battle of Austerlitz, 2 December 1805 (Gérard)」(1806年の注文、1810年のサロン)
  • Henri Gérard 編『Correspondance de François Gérard, peintre d'histoire, avec les artistes et les personnages célèbres de son temps』(1867年)冒頭の伝記(Viollet-le-Duc の序文つき)。Internet Archive「correspondancede00gruoft」で本文を確認
    • 陪審員と出席回数:同書7〜8頁
    • 松葉杖の話:同書7頁の注(Charles Lenormant『Notice sur Gérard』からの引用)
    • イザベイと「ベリサリウス」:同書8〜9頁
    • ゴドフロワの回想(サン=クルー宮、工房の鍵):同書30〜34頁
    • 水曜のサロンと死去:同書27〜29頁
    • アウグスト王子の書簡(1819年4月6日付)、シュレーゲルの書簡(1827年9月21日付):同書の書簡編
  • Larousse「La Terreur」(革命裁判所)