ジョルジュ・キュヴィエ

ジョルジュ・キュヴィエ

キュヴィエ

Cuvier, Georges

1769年8月23日 – 1832年5月13日 (62歳没)

フランス 総合科学

ジョルジュ・キュヴィエの人物情報

フランスの博物学者、比較解剖学者。当時ヴュルテンベルク公の領地だったモンベリアールに生まれ、シュトゥットガルトのカール学院で学んだ。1795年にパリの自然史博物館に迎えられ、動物を脊椎・軟体・関節・放射の4つの「型」に分けた。化石の骨から、いまは地上にいない動物の姿を復元し、古生物学の土台を築いた。一方で、種が変化するというラマルクらの考えには反対した。サラ・バートマンの遺体を解剖し、人種の優劣を説いたことは、今日きびしく批判されている。

同時代の人物

キュヴィエは1769年8月23日生まれ。そのわずか8日前、8月15日にコルシカでナポレオンが生まれている。同じ年の5月にはウェリントンが生まれた。

カール学院では、10歳上のシラーが先輩にあたる(在学時期は重ならない)。

日本では、『東海道中膝栗毛』の十返舎一九が4歳上。一九は1831年に、キュヴィエは翌1832年に亡くなった。同じ1832年の3月には、82歳のゲーテも世を去っている。

年齢で見る生涯

  • 14歳(1784年) シュトゥットガルトのカール学院に入る。仲間と博物学の会をつくった
  • 18〜19歳(1788年) ノルマンディーのエリシー伯爵家で、息子の家庭教師になる
  • 25歳(1795年) パリに出て、自然史博物館で動物解剖学を教え始める。12月には国立学士院の会員に選ばれる
  • 32〜33歳(1802年) マルセイユやボルドーなどのリセ(国立高等中学校)づくりを任される
  • 42〜43歳(1812年) 『四足獣の化石骨の研究』を刊行
  • 46歳(1815年末) パリで見世物にされていた南アフリカのコイコイ人女性サラ・バートマンが亡くなると、遺体を解剖し、全身の石膏型を取り、骨格や臓器を保存した。1817年の報告では、一部の人種は「永遠の劣等」に定められていると書いた。遺骨などは1970年代まで人類博物館で展示され、2002年に南アフリカへ返された
  • 60歳(1830年) 科学アカデミーでジョフロワ・サンティレールと論争する
  • 62歳(1832年) 5月13日、パリで死去。コレラ流行のさなかの急な病だった

25歳の無名の家庭教師が、パリに出て1年足らずで学士院の会員になり、1803年には科学アカデミーの終身書記に就いた。同い年のナポレオンが皇帝へ駆け上がった同じ時期に、キュヴィエも学界の頂点に立った。

人物のつながり

  • ナポレオン:8日違いの同い年。第一統領ボナパルトの政府が1802年に始めたリセ創設で、組織づくりの委員を務めた。
  • ジョフロワ・サンティレール:1795年、キュヴィエをパリへ呼び寄せた一人。のちに博物館の同僚となり、1830年に公開の論争を戦った。
  • ラマルク:博物館の同僚。キュヴィエは、種が少しずつ変わっていくというラマルクの説を認めなかった。
  • バルザック:30歳近く年下。1831年の小説『あら皮』で「キュヴィエこそ今世紀最大の詩人ではないか」と書いた。

エピソード

「ノルマンディーの堆肥の中に真珠を見つけた」(24〜25歳・1794年頃)

革命のさなか、キュヴィエはフェカンに近い城で家庭教師をしながら、台所に届く魚やカニ、浜の貝を解剖しては、絵入りのノートを書きためていた。地元の革命クラブでは書記も務めた。このクラブが農業の勉強会に変わると、恐怖政治を逃れてフェカンに来ていた農学者テシエが顔を出すようになった。若者の知識に驚いたテシエは、パリの友人パルマンティエに「ノルマンディーの堆肥の中に真珠を見つけた」と書き送ったと伝えられる。翌1795年春、キュヴィエはパリへ招かれた。

見物人の前で「袋の骨」を掘り出す(34〜35歳・1804年)

パリ北部モンマルトルの石膏の採石場で、二つに割れた石に小さな動物の全身の跡が見つかった。キュヴィエは歯の形から、これはオポッサム(フクロネズミ)の仲間だと判断した。それなら、有袋類だけが持つ、袋を支える1対の骨が骨盤の前に埋まっているはずだ。キュヴィエは結果を前もって告げておいた人々の前で、細い鋼の針で石を削った。現れたのは予想どおりの2本の骨だった。論文には「理論の本当の証しは、現象を予見させる力にある」と書いている。

「火山が噴火した」とゲーテが言ったのは(60歳・1830年)

1830年、パリの科学アカデミーで、キュヴィエとジョフロワ・サンティレールが、すべての動物を一つの設計図で説明できるかをめぐって争った。キュヴィエは4つの型を譲らなかった。エッカーマン『ゲーテとの対話』に収められたソレの記録によれば、8月2日、80歳のゲーテは訪ねてきたソレを「この大事件をどう思う。火山が噴火した」と迎えた。七月革命の話だと思ったソレが国王の追放に触れると、ゲーテは「話がかみ合っていない」と遮る。ゲーテが言っていたのは、7月19日のアカデミーでの2人の論争のことだった。

出典・参考資料

  • Wikipédia(fr)「Georges Cuvier」、Louis Roule「La vie, la carrière et la mort de Cuvier」(Archives du Muséum national d'histoire naturelle、6e série、t. IX、1932年)、Philippe Taquet「Georges Cuvier, naissance d'un génie」(COFRHIGEO、annales.org)、Ferdinand Buisson『Dictionnaire de pédagogie』「Cuvier (Georges)」(INRP 電子版)、Wikipédia(fr)「Principauté de Montbéliard」、Wikipédia(fr)「Saartjie Baartman」、フランス元老院 2002年1月29日審議録(バートマン遺骨返還法案)
  • G.-L. Duvernoy『Notice historique sur les ouvrages et la vie de M. le baron Cuvier』(1833年、Wikisource)(テシエの手紙)
  • Roule 前掲(ヴァルモンのクラブ、テシエとの出会い)、duboysfresney.fr「Quelques visiteurs de marque à Fécamp」(テシエはフェカンの軍病院の医長、クラブで出会う)
  • Cuvier「Mémoire sur le squelette presque entier d'un petit quadrupède du genre des sarigues, trouvé dans la pierre à plâtre des environs de Paris」(Annales du Muséum d'histoire naturelle、t. 5、1804年)。引用は「La sarigue de Montmartre」(教材資料、squarespace掲載PDF)による。MNHN「Sarigue de Cuvier」(本文は403で閲覧できず、検索結果の要約のみ確認。1804年の公開での摘出と、標本が同館の代表的な歴史標本であること)
  • Eckermann『Gespräche mit Goethe in den letzten Jahren seines Lebens』第3部、1830年8月2日(gutzitiert.de 掲載本文)