ルイ16世
ルイ
Louis XVI
1754年8月23日 – 1793年1月21日 (38歳没)
ルイ16世の人物情報
ブルボン朝第5代のフランス王(在位1774〜92年)。ルイ15世の孫で、父の王太子が早世したため11歳で王太子となり、1770年にオーストリアの皇女マリー・アントワネットと結婚、1774年に19歳で即位した。テュルゴーやネッケルを起用して財政再建を試み、アメリカ独立戦争では植民地側についたが、戦費が財政危機を深めた。1789年に全国三部会を召集したことが革命の発端となる。1791年のヴァレンヌ逃亡で国民の信頼を失い、1792年に王権を停止され、国民公会の裁判で死刑を宣告されて1793年1月21日に処刑された。地理や機械いじりを好む学究肌の王でもあった。
同時代の人物
ルイ16世が生まれた翌年の1755年11月には、弟のプロヴァンス伯、のちのルイ18世が生まれている。兄が処刑台に消えたのに対し、弟は亡命生活を経て、ナポレオンの失脚後に王位に就いた。2歳下にはモーツァルト、4歳下には兄を裁く側に回るロベスピエールがいる。
日本では前年の1753年に喜多川歌麿が、翌1755年に鶴屋南北が生まれた。ルイ16世が即位した1774年には、江戸で杉田玄白らの『解体新書』が刊行されている。
年齢で見る生涯
即位は19歳、処刑は38歳で、王として過ごしたのは18年あまりである。1778年の米仏同盟条約は、当時のルイ15世広場に面した館で調印された。15年後、名を「革命広場」と改めたその広場で、ルイ16世は処刑された。
人物のつながり
エピソード
探検隊への指示書に自ら書き込む(30歳・1785年)
地理好きの王にとって、ラ・ペルーズの世界周航は肝いりの事業だった。王は計画案に自ら書き込みを加えて航路を練り、1785年6月に指示書を本人へ手渡した。そこでは出会う人々を丁寧に扱い、その慣習を尊重するよう求め、「一人の命も失わずに航海を終えられたなら、それが最も幸いな成功の一つ」とも記している。一行は1787年に宗谷海峡を通り、海峡は国際的に「ラ・ペルーズ海峡」と呼ばれる。だが2隻はバニコロ島で遭難し、王は結末を知らないまま処刑された。処刑台で「ラ・ペルーズの消息は」と尋ねたという話も伝わるが、確かな証言はない。
英語の本を訳した王(37歳以前・1792年以前)
ルイ16世は英語にも通じていた。英国首相ロバート・ウォルポールの息子で作家のホレス・ウォルポールが1768年に出した『リチャード3世の生涯と治世に関する歴史的疑問』を、王はフランス語に訳している。シェイクスピア劇で悪役の代名詞となった王の汚名を晴らそうとした本である。自筆の訳稿は1792年8月10日、民衆が襲ったテュイルリー宮殿から持ち出されたが、廃棄を免れた。1800年に「ルイ16世訳」としてパリで出版され、原稿はいま米イェール大学の図書館にある。訳した時期ははっきりしない。
31歳で初めて海を見る(31歳・1786年)
1786年6月、ルイ16世はノルマンディーの軍港シェルブールを訪れた。沖合に防波堤を築くため、木組みの巨大な円錐を海に沈める工事の視察である。23日は午前3時に起きて沈設を見届けた。これが王にとって初めての海だったという。随行した医師ヴィック・ダジールは、王が縄ばしごで船に乗りたがったと書き残している。翌日は74門艦で艦隊の演習を見学した。町で「国王万歳」の声を浴びると「わが民万歳」と応え、「これほど王である幸せを味わったことはない」と語ったと伝えられる。
出典・参考資料