ジャック・ルネ・エベール

ジャック・ルネ・エベール

エベール

Hébert, Jacques René

1757年11月15日 – 1794年3月24日 (36歳没)

フランス 政治家

ジャック・ルネ・エベールの人物情報

フランス革命期のジャーナリスト、政治家。アランソンの金銀細工師の家に生まれ、1790年に新聞『デュシェーヌ親父(Le Père Duchesne)』を始めた。ストーブ売りの親父が罵り言葉まじりにしゃべる文体で、パリの民衆に広く読まれた。パリ・コミューンの第二助役として、恐怖政治の徹底や非キリスト教化を求める急進派「エベール派」を率いた。1793年の王妃マリー・アントワネットの裁判では、根拠のない近親相姦の告発をした。1794年3月に陰謀の罪で逮捕され、判決の当日に36歳でギロチンにかけられた。

同時代の人物

エベールが生まれた1757年11月15日の13日後、ロンドンで詩人のウィリアム・ブレイクが生まれている。半年後の1758年5月には、のちにエベールを処刑台に送るロベスピエールが生まれた。3歳上にはルイ16世がいる。

日本では4歳下に、江戸琳派の絵師酒井抱一がいる。エベールが処刑された1794年、抱一は32歳だった。

年齢で見る生涯

  • 10代末〜22歳(1770年代後半〜1780年) 郷里アランソンで、友人をかばって相手を中傷する文書を出したとして有罪となり、パリへ出る
  • 28歳(1786年) ヴァリエテ劇場の桟敷席の予約係となる。1788年に職を離れ、また困窮する
  • 32歳(1790年9月) 『デュシェーヌ親父』の刊行を始める
  • 35歳(1792年12月) パリ・コミューンの第二助役に選ばれる
  • 35歳(1793年5月24日) ジロンド派の「十二人委員会」に逮捕されるが、民衆の圧力で数日後に釈放される
  • 35歳(1793年10月) 王妃の裁判で証言する
  • 36歳(1794年3月24日) 13〜14日の夜に逮捕され、裁判は3日で終わった。判決当日の午後、革命広場で処刑された。荷車の上の彼に、群衆は彼自身の紙面の決まり文句を浴びせたと伝えられる。妻フランソワーズ・グピルも4月13日に処刑された

パリに出てから10年、新聞を始めた32歳までは無名の人だった。名を知られていたのは、処刑までのわずか3年半ほどである。

人物のつながり

  • ロベスピエール:半年年下。王妃裁判でのエベールの証言に激怒したと伝えられる。非キリスト教化をめぐって対立し、1794年3月、公安委員会はエベール派を一斉に逮捕した。
  • ルイ16世:『デュシェーヌ親父』は初め国王に好意的だったが、1791年のヴァレンヌ逃亡のあと国王一家を激しく攻撃するようになった。
  • カミーユ・デムーラン:ジャーナリスト。1793年12月から新聞『ヴュー・コルドリエ』でエベールを攻撃した。エベールの処刑の12日後、自らも処刑されている。

エピソード

劇場の窓口係は泥棒だったのか(28〜36歳・1786〜93年)

エベールが新聞を始める前に勤めたヴァリエテ劇場の仕事は、のちに政敵の格好の攻撃材料となった。1793年12月、デムーランは『ヴュー・コルドリエ』第5号で、エベールは劇場の入口で再入場券を配る係だったが、売上の減りに支配人が苦情を言い、盗みを理由に首にされたと書き立てた。エベールは公開書簡で反論し、友人の支配人を証人に挙げた。窃盗の罪は結局証明されていない。歴史家ソブールは、エベールの実際の職は桟敷席の予約を扱う係で、「入口の券売り」とした19世紀の歴史家ミシュレの書き方は誤りだと指摘している。

縁日の人気者が新聞になる(32〜35歳・1790〜93年)

デュシェーヌ親父はエベールの創作ではない。ソブールによれば、パリのサン=ジェルマン縁日の見世物小屋で、ポリシネルやアルルカンと並んで生まれた道化役で、1745年には記録があり、1788年には大流行していた。エベールはこの、太い口ひげにパイプをくわえたストーブ売りの親父を語り手に据え、「foutre(くそっ)」を連発させた。紙面は暴力をあおった。1793年9月ごろの号では、「聖なるギロチン」を伴う革命軍を地方に送って穀物の買い占め人を取り締まれと説いている。デムーランは、エベールが陸軍省から軍隊向けに1号分60万部の代金6万リーヴルを受け取ったと告発している。

王妃裁判の証言と、割られた皿(35歳・1793年10月)

1793年10月、エベールは王妃マリー・アントワネットの裁判に証人として立ち、彼女が8歳の息子と近親相姦をしたと述べた。看守シモンから聞いた話で、根拠のない中傷だった。王妃が、ここにいるすべての母親に訴えると答えた場面は日本でもよく知られている。陪審員だったヴィラートの回想によれば、判決の翌日、バレールが開いた夕食の席でこの場面を聞いたロベスピエールは、フォークで自分の皿を割り、「あの馬鹿のエベールめ」と言った。王妃が本物のメッサリナ(淫らな皇后)であるだけでは足りず、息子と通じた母アグリッピナにまで仕立てたせいで、最期の王妃に世間の同情という勝利を与えてしまった、というのである。ただし、ロベスピエールの失脚後に獄中で書かれた回想である。

出典・参考資料

  • Wikipedia(fr)「Jacques-René Hébert」、Wikipedia「ジャック・ルネ・エベール」、Wikipedia(en)「Marie Marguerite Françoise Hébert」「William Blake」
  • Camille Desmoulins『Le Vieux Cordelier』第5号(1793年。Wikisource「Le Vieux Cordelier (n°5)」)
  • Pierre Larousse『Grand dictionnaire universel du XIXe siècle』「HÉBERT (Jacques-René)」(Wikisource。アランソンの事件、デムーランへの反論書簡、処刑台への道)
  • Albert Soboul「Profil de Hébert」(トリエステ大学の講義資料として公開された仏語原文 https://moodle2.units.it/pluginfile.php/498163/mod_resource/content/1/Profilo%20di%20He%CC%81bert.doc)
  • Joachim Vilate『Causes secrètes de la révolution du 9 au 10 thermidor』(Paris, an III/1795年。Internet Archive「causessecrtesd00vila」)
  • Jules Michelet『Histoire de la Révolution française』(ソブールの引用による)