ホレーショ・ネルソン
ネルソン
Nelson, Horatio
1758年9月29日 – 1805年10月21日 (47歳没)
ホレーショ・ネルソンの人物情報
イギリスの海軍軍人。牧師の子としてノーフォークに生まれ、12歳で海軍に入った。1798年のナイルの海戦、1801年のコペンハーゲンの海戦で勝利を重ね、その間に右目の視力と右腕を失っている。1805年、トラファルガーの海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、ナポレオンのイギリス侵攻の脅威を取り除いたが、自らは狙撃されて戦死した。ロンドンのトラファルガー広場の記念柱に像が立っている。
同時代の人物
1758年生まれの同い年に、ロベスピエールと米大統領モンローがいる。ロベスピエールが処刑された1794年7月、ネルソンはコルシカ島のカルヴィで右目の視力を失っていた。日本では葛飾北斎が2歳下だ。
1800年、ネルソンはエステルハージ家を訪ね、ハイドンに会っている。ハイドンのミサ曲が「ネルソン・ミサ」と呼ばれるのは、作曲の時期がナイルの海戦と重なったためである。
年齢で見る生涯
主な海戦は39歳からの7年間に集中している。片目と片腕を失ってからが本番だった。
人物のつながり
エピソード
敵旗艦のマストで作った棺を、食卓の後ろに(39〜40歳・1798年)
ナイルの海戦で仏旗艦オリアン号が爆沈すると、英艦の艦長ハロウェルはそのメインマストを拾って棺を作らせ、「務めを終えたら戦利品の中に葬られますように。その日がずっと先であることを願いつつ」と添えて贈った。ネルソンは喜び、棺を船室の壁に立て、食事の椅子の後ろに置いた。見かねた古参の従者に頼まれて、ようやく片付けたという。1805年の出征前には保管先に立ち寄り、蓋にいわれを彫らせて「帰りに要るかもしれない」と言ったと伝えられる。遺体は実際にこの棺に納められた。
東郷が持ち帰った遺髪の行方(没後・1911年〜)
1911年、ジョージ5世の戴冠式で渡英した東郷平八郎は、英国側からネルソンの遺髪を収めた額を贈られた。額はネルソンの机の板で作られ、エマ・ハミルトンの肖像まで添えてあったという。東郷はこれを海軍兵学校に寄贈し、生徒の拝観も許された。ところが終戦直後の1945年に行方がわからなくなる。いま江田島の教育参考館にある遺髪は、1981年に英国海軍から改めて贈られた別のものである。
「ラム酒漬け」ではなかった帰国の旅(没後・1805年)
遺体は酒の樽に漬けて本国へ運ばれた。ラム酒で、水兵がこっそり飲んだという話が知られるが、軍医ビーティの報告では、樽の酒はブランデーで、途中のジブラルタルでワインの蒸留酒を足している。樽には番兵が付いていた。3日後、遺体のガスで蓋が持ち上がり、番兵が驚いて士官を呼んだという。酒が減ったのは遺体が吸ったためだとビーティは書く。水兵が飲んだ話に裏づけはない。
出典・参考資料