葛飾北斎

葛飾北斎

カツシカホクサイ

Katsushika, Hokusai

1760年10月31日 – 1849年5月10日 (88歳没)

日本 版画

葛飾北斎の人物情報

日本の浮世絵師。1760年10月31日(宝暦10年9月23日)江戸生まれ。
狩野派をはじめとして中国絵画や油彩など和漢洋の様々な画法を学んだ。作品は美人画や風景画、挿絵など多岐にわたる。
代表作は「富嶽三十六景」「北斎漫画」など。
その作品は後に印象派をはじめとする多くの西洋の画家に多大な影響を与えた。

同時代の人物

北斎が生まれた1760年前後は、江戸の町人文化を担う人々が続けて生まれた時期だ。同世代には次の人々がいる。

世界に目を向けると、モーツァルトは北斎の4歳年上である。モーツァルトが35歳で亡くなった1791年、北斎はまだ31歳だった。

北斎が亡くなった1849年(数え90歳)には、ヨーロッパでショパン(39歳)とエドガー・アラン・ポー(40歳)も世を去っている。

年齢で見る生涯

  • 19歳(1778年) 勝川春章に入門
  • 46〜50歳(1805〜09年) 滝沢馬琴の読本の挿絵で評判を得る
  • 55歳(1814年) 『北斎漫画』初編を刊行
  • 70歳前後(1830年頃〜) 『冨嶽三十六景』の刊行が始まる
  • 90歳(1849年) 死去。臨終の言葉は「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」

代表作『冨嶽三十六景』は、70歳を過ぎてから手がけた仕事だ。75歳のときには『富嶽百景』の跋文で、「百歳にして正に神妙ならん」と、まだまだ上を目指すと宣言している。

人物のつながり

  • 滝沢馬琴:『椿説弓張月』などの読本で、文と挿絵の名コンビを組んだ。馬琴は北斎の半年ほど前、1848年に亡くなっている。
  • 安藤(歌川)広重:37歳年下。『冨嶽三十六景』に続く風景画の流れのなかで、1834年頃に保永堂版「東海道五十三次」を出した。北斎の演出の効いた画風とは違い、景色を忠実に描く「真景」を旨とした。

エピソード

引っ越し93回、理由は「部屋が汚れたから」

北斎は生涯に93回引っ越したと伝えられる「引っ越し魔」だった。家を建てたのは一度きりで、あとはずっと借家暮らし。描き散らした紙や絵の具で部屋が埋まっても掃除はせず、汚れるたびに引っ越したといわれる。同居した娘のお栄(葛飾応為)も片付けが苦手で、住まいは足の踏み場もなかったという。ただし転居先のほとんどは、生まれ育った本所(いまの墨田区)周辺だった。

画号は約30回。最後は「画狂老人卍」

画号(ペンネーム)も約30回変えた。デビュー時は「勝川春朗」で、その後「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」と名乗り、晩年には「画狂老人卍」にたどり着く。代名詞の「北斎」にもこだわらず、弟子に譲ったと伝えられる。号を譲る代わりに謝礼を受け取り、生活費の足しにしていたという説まである(真偽は不明)。

120畳の紙に大だるまを即興で描く(58歳・1817年)

1817年、北斎は名古屋の寺の境内に120畳敷(縦約18m×横約11m)の紙を広げ、群衆の前で巨大な筆を振るってだるまの半身像を一気に描き上げた。見物人は熱狂し、北斎は「だるせん(だるま先生)」と呼ばれたという。江戸の護国寺で成功させた催しの再演で、いまでいうライブペインティングである。この日の様子は尾張藩士が詳しく書き残しており、2017年には記録をもとに再現された。

将軍の前で、鶏に紅葉を描かせる(伝承)

11代将軍・徳川家斉に呼ばれ、谷文晁と並んで即興で描いたときの話である。北斎は長い紙に刷毛で藍色の帯を引くと、足の裏に朱を付けた鶏を放ち、紙の上を歩かせた。点々と残った赤い足跡を指して「竜田川の紅葉でございます」と申し上げたと伝えられる。明治期の伝記『葛飾北斎伝』(飯島虚心)が伝える逸話で、真偽は定かでない。

出典・参考資料

  • Wikipedia「葛飾北斎」、Wikipedia「東海道五十三次 (浮世絵)」
  • 小布施 北斎館(引っ越し)
  • 和樂web・島根県立美術館(画号)
  • 名古屋市博物館「北斎だるせん!」、中日新聞(大だるま)
  • 栃木県立美術館「文晁と北斎」、飯島虚心『葛飾北斎伝』(鶏)