クレメンス・メッテルニヒ

メッテルニヒ

Metternich, Klemens von

1773年5月15日 – 1859年6月11日 (86歳没)

オーストリア 政治家

クレメンス・メッテルニヒの人物情報

オーストリアの外交官、政治家である。ライン地方のコブレンツで貴族の家に生まれ、ドレスデン、ベルリン、パリの大使を経て、1809年に外相となった。翌年、皇女マリー=ルイーズとナポレオンの結婚をまとめたが、1813年には対仏同盟に加わり、ナポレオンの没落後はウィーン会議を主宰した。その後も1821年から宰相として、ヨーロッパの君主国が協調して革命や自由主義運動を抑える「ウィーン体制」を支えた。検閲や秘密警察による言論の取り締まりでも知られる。1848年の三月革命で失脚してイギリスへ逃れ、1851年にウィーンへ戻って、その地で亡くなった。

同時代の人物

メッテルニヒが生まれた1773年の秋には、フランス王となるルイ・フィリップが生まれている。2人は1848年の革命でそろって地位を追われ、ルイ・フィリップは2月、メッテルニヒは3月に国を離れて、ともにイギリスへ逃れた。

伝記作家ジーマンは、1770年前後に生まれた人々を「メッテルニヒ世代」と呼んでいる。4歳上のナポレオンとウェリントン、3歳上のベートーベン、2歳下のジェイン・オースティン、4歳下のアレクサンドル1世がこの世代にあたる。ベートーベンの髪の束は、のちにメッテルニヒの収集品に加わった。

日本では、式亭三馬が3歳下である。三馬が『浮世風呂』を出し始めた1809年は、メッテルニヒが外相に就いた年でもある。

年齢で見る生涯

  • 20歳(1794年) 初めてイギリスに渡り、議会を傍聴して日記をつける
  • 36歳(1809年) オーストリアの外相に就任
  • 36歳(1810年) マリー=ルイーズとナポレオンの結婚をまとめる
  • 40歳(1813年) ドレスデンでナポレオンと会談。8月にオーストリアは対仏戦に加わる
  • 41〜42歳(1814〜15年) ウィーン会議を主宰
  • 48歳(1821年) 宰相(国家宰相)の称号を受ける
  • 74歳(1848年) 三月革命で辞任し、4月にロンドンへ着く
  • 86歳(1859年) ウィーンで死去

外相に就いてから失脚するまで約38年半、ヨーロッパ外交の中心にいた。最後の11年は「過去の人」として過ごしたが、86歳まで生き、同世代のナポレオンより35年長く生きた。

人物のつながり

  • ナポレオン:1810年に皇女との結婚をまとめた相手。1813年のドレスデン会談で決裂し、以後は打倒する側に回った。
  • アレクサンドル1世:ロシア皇帝。ウィーン会議で領土をめぐって激しく争ったが、その後は神聖同盟の枠組みで協調した。
  • ウェリントン:同世代の英国の軍人、政治家。ウィーン会議をともに担い、友情は40年以上続いた。
  • ドロテア・リーヴェン:ロンドン駐在ロシア大使の夫人。1818年のアーヘン会議で知り合い、以後8年ほど、政治の話も交えた恋文を交わした。

エピソード

ナポレオンの帽子を拾わなかった外相(40歳・1813年)

1813年6月26日、メッテルニヒはドレスデンのマルコリーニ宮殿でナポレオンと向き合った。オーストリアは講和の仲介役だった。話し合いは昼前から夜まで、休憩も食事もなしで続いた。メッテルニヒの回想によれば、ナポレオンは「私のような男は100万人の命など意に介さない」と言い放ち、激して帽子を床に投げつけた。メッテルニヒは拾わず、皇帝は自分で拾うはめになったという。ただし同席者はおらず、ナポレオンから話を聞いたコランクールの記録では、帽子は机から落ちただけである。8月、オーストリアはフランスに宣戦した。

「1900年に生まれるべきだった」(47歳・1820年)

1820年、ナポリなどで革命が起き、メッテルニヒはその抑え込みに追われていた。10月、恋人のリーヴェン夫人に宛てた手紙で、彼はこう嘆いている。「私の人生はいやな時代に当たってしまった。生まれるのが早すぎたか、遅すぎたのだ」。今は朽ちかけた建物を支えて人生を費やしている、と続け、「1900年に生まれて、20世紀を目の前にしているべきだった」と結んだ。保守反動の象徴とされる人物が、自分の仕事をどう見ていたかがうかがえる一節である。

元死刑執行人を学芸員に雇う(54〜55歳・1827〜28年)

ボヘミア西部のケーニヒスヴァルト城(現チェコのキンジュヴァルト城)は、メッテルニヒの夏の館だった。1827年、彼は近くの町エーガー(現ヘプ)のカール・フスから収集品を買い取る。フスはこの町の最後の死刑執行人で、ヨーゼフ2世の時代に死刑がほぼ行われなくなると、人や家畜の治療をしながら古銭や鉱物を集めた。ゲーテも6回、その家を訪ねている。メッテルニヒはフスに終身年金300グルデンと住まいを与え、1828年に城の学芸員として迎えた。この収集室は世界でも古い私設博物館の一つとされ、今も約1800点が並んでいる。

出典・参考資料

  • Wikipedia「クレメンス・フォン・メッテルニヒ」、Wikipedia(de)「Klemens Wenzel Lothar von Metternich」、Wien Geschichte Wiki「Clemens Wenzel Lothar Metternich」(生没日・生地・死去地)、Wikipedia「浮世風呂」「式亭三馬」
  • Wikipedia(de)「Treffen zwischen Napoleon und Metternich」(会談の時刻、帽子の場面、コランクールの記録との違い、8月12日の宣戦) https://de.wikipedia.org/wiki/Treffen_zwischen_Napoleon_und_Metternich
  • 原典:Richard von Metternich (Hg.)『Aus Metternich's nachgelassenen Papieren』第1巻(ドレスデン会談の回想)
  • Wiener Zeitung「Der „Kutscher Europas"」(リーヴェン宛書簡のドイツ語訳文) https://www.wienerzeitung.at/h/der-kutscher-europas
  • Wolfram Siemann「Metternich's Britain」German Historical Institute London, The 2011 Annual Lecture(リーヴェン宛書簡の日付「1820年10月」、典拠は NP 第3巻348頁。1794年の英国旅行日記、1848年4月の亡命、「メッテルニヒ世代」) https://www.ghil.ac.uk/fileadmin/redaktion/dokumente/annual_lectures/AL_2011_Siemann.pdf
  • Österreichisches Biographisches Lexikon「Huss, Karl (1761-1838)」 https://www.biographien.ac.at/oebl/oebl_H/Huss_Karl_1761_1838.xml
  • Prager Zeitung「Der empfindsame Henker」 https://www.pragerzeitung.cz/der-empfindsame-henker/
  • Wikipedia(de)「Karl Huß」
  • Zámek Kynžvart(国立文化財研究所 NPÚ の公式サイト)「Muzeum a kabinet kuriozit」 https://zamek-kynzvart.cz/cs/informace-pro-navstevniky/prohlidkove-okruhy/6189-muzeum-a-kabinet-kuriozit-zakladni-okruh
  • Český rozhlas Vysočina「Zámek Kynžvart ukrývá unikátní sbírky kancléře Metternicha. Najdete tu mumie i Beethovenovy vlasy」(ベートーベンの髪) https://vysocina.rozhlas.cz/zamek-kynzvart-ukryva-unikatni-sbirky-kanclere-metternicha-najdete-tu-mumie-i-9497716
  • Andrea Stahl『Metternich und Wellington. Eine Beziehungsgeschichte』(2014年。40年以上の友情)
  • Austria-Forum「Metternich im Exil」(亡命先でルイ・フィリップらと会ったこと、1851年の帰国)