ルイ・フィリップ
ルイフィリップ
Louis-Philippe I
1773年10月6日 – 1850年8月26日 (76歳没)
ルイ・フィリップの人物情報
七月王政のフランス王(在位1830〜48年)。オルレアン公フィリップ(フィリップ・エガリテ)の長男としてパリのパレ・ロワイヤルに生まれた。革命初期は共和国軍の将校としてヴァルミーやジュマップで戦ったが、1793年に上官デュムーリエの離反に連座して国外へ逃れ、父は同じ年に処刑された。スイスでの偽名の教師生活、北欧やアメリカの旅を経て英国に落ち着き、王政復古で帰国する。1830年の七月革命で「フランス人の王」に迎えられ、傘を手に街を歩く「市民王」として親しまれた。だが選挙権の拡大を拒み続けて支持を失い、1848年の二月革命で退位、亡命先の英国で没した。
同時代の人物
ルイ・フィリップが生まれた1773年には、オーストリアの宰相メッテルニヒが5か月早く、米大統領ウィリアム・ハリソンが2月に生まれている。2人はともに1848年の革命で地位を追われ、英国へ逃れることになる。4歳上にはナポレオン・ボナパルトがいる。
日本では3歳下に戯作者の式亭三馬がおり、6歳上の滝沢馬琴は、ルイ・フィリップが王座を追われた1848年の12月に亡くなった。ルイ・フィリップの死の8日前には、パリでバルザックが51歳で世を去っている。
年齢で見る生涯
王位に就いたのは56歳で、それまでの人生のうち20年あまりを亡命者として過ごしている。王として過ごした18年は、その亡命期間よりも短かった。
人物のつながり
エピソード
ライヒェナウの「シャボ先生」(20歳・1793〜94年)
1793年10月、身分を隠した王子は、スイス東部ライヒェナウ城の新しい学校に「シャボ先生」として迎えられた。校長は形ばかりの試験をして、独・伊・英語ができ、歴史と幾何も教えられると報告している。12歳前後の生徒に数学や地理を教えていた11月、パリで父が処刑された。半世紀後の1844年、王はヴィクトリア女王に、日に20フランで自分の靴を磨いた教師時代を語った。翌年には「王は1793年の歓迎を決して忘れていない」との書簡を添え、肖像画2点を城に贈っている。
「ミュラー氏」、北岬へ(21歳・1795年)
1795年、王子は「スイスの学者ミュラー」と名乗って北欧を旅し、ノルウェーの北岬(ノールカップ)までたどり着いた。小舟で海岸を北上し、牧師館や宿屋に泊まる旅である。岬の手前のマーソイでは、商人バックが正体を知らないまま手厚くもてなした。王子は帰国後に礼状を書き、そこで初めて身分を明かしたという。北岬に立った最初のフランス人であることを誇りにし、即位後の1838年には、北極海へ向かう調査船ルシェルシュ号にブロンズの胸像を託して現地へ贈った。
梨の落書きを手伝った王?(58歳・1831年〜)
1831年11月14日、風刺新聞の主宰者フィリポンは国王侮辱の罪を問われた法廷で、王の顔が4段階で洋梨に変わる素描を示した。最初の絵が王に似ていて有罪なら、最後の梨まで有罪にするしかない、という理屈である。判決は禁錮6か月。のちに本人は、有罪を見越して用意した「仕返し」だったと明かしている。梨はオノレ・ドーミエらの風刺画に繰り返し描かれ、パリ中の壁に落書きされた。ユゴーは『レ・ミゼラブル』で、門柱に梨を描こうと背伸びする子どもを見た王が、梨を描き上げてやり、ルイ金貨を渡して「梨はこれにも付いているよ」と言った、という話を紹介している。
出典・参考資料