ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
ヴィットーリオ・エマヌエーレ
Vittorio Emanuele II
1820年3月14日 – 1878年1月9日 (57歳没)
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の人物情報
サルデーニャ王国の最後の国王で、統一イタリア王国の初代国王である。1820年、トリノでサヴォイア家の分家カリニャーノ家に生まれた。1849年、オーストリアに敗れた父カルロ・アルベルトの退位を受けて29歳で即位する。首相カヴールのもとで1859年にオーストリアと戦い、1860年にはガリバルディが制圧した南イタリアを受け取り、1861年3月にイタリア国王となった。1870年にローマを占領して首都とし、1878年、ローマで57歳で亡くなった。山と狩猟、馬を好んだ。王妃の死後、平民出身のローザ・ヴェルチェッラーナと貴賤結婚している。
同時代の人物
1820年生まれの同い年には、ナイチンゲールとエンゲルスがいる。1855年、サルデーニャはクリミア戦争に兵を送ったが、ナイチンゲールはまさにその戦争の野戦病院で働いていた。10か月年上のヴィクトリアとは、同じ年に親しく顔を合わせている。
晩年の1876年には、イタリア人画家フォンタネージが工部美術学校の教師として来日した。20歳の浅井忠はその生徒となり、48歳の高橋由一も教えを受けた。
年齢で見る生涯
統一の大仕事は、40歳前後の数年に集中している。宿敵ナポレオン3世が亡くなったのは1873年1月9日で、国王はそのちょうど5年後の同じ日に亡くなった。教皇ピウス9世も、国王の1か月後に世を去っている。
人物のつながり
エピソード
ヴィクトリア女王「中世の騎士か王のよう」(35歳・1855年)
1855年11月末、国王はクリミア戦争の同盟国としてウィンザー城に招かれた。女王は日記に、背は高くないががっしりして、鼻は上を向き、あごが突き出ている、と書いている。12月5日には、叔父のベルギー王にあてて「初めて会うと、見た目も物腰もひどく驚かされる」と書いた。一方で、率直で約束を決して破らない人物とも評し、「いまどきの誰より、中世の騎士か王のよう」と結んでいる。翌日の出発は朝4時だった。随行したラ・マルモラ将軍は、国王を「思っていないことは決して言わないが、言わないほうがよいことを時々言う」と評した。
狩りを独り占めした王が、アイベックスを救う(35〜36歳・1856年)
1856年、国王はアルプスのグラン・パラディーゾ一帯を王室の狩猟保護区とした。村々や住民から狩猟の権利を買い取り、自分だけが狩れる山にしたのである。監視隊を置き、狩猟小屋を結ぶ山道を約350kmも造らせた。おかげで、絶滅寸前だったアルプスアイベックスが生き延びた。動機は自然保護ではなく、狩りの独占だったわけである。孫のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がこの土地を国に譲り、1922年にイタリア初の国立公園となった。王の山道の多くは、いまも登山道として使われている。
消しても消えない「ヴェルディ万歳」(38歳・1859年)
対オーストリア戦を控えた1859年1月、トリノの新聞「オピニオーネ」に、モデナの通信員が書いている。壁が新聞の役目を果たし、若者はいつも「ヴェルディ」の名を口にする。その綴りが「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ(Vittorio Emanuele Re D'Italia)」の頭文字になるからだ、と。警察は毎晩、部下を出して落書きを消させた。だが翌日には、前より大きな文字で書かれていたという。この合言葉は1859年の同時代資料で確かめられる。ただし、ローマでの『仮面舞踏会』の初演で生まれたという有名な話は、後の伝説とみられている。
出典・参考資料