ギュスターヴ・フロベール
フロベール
Flaubert, Gustave
1821年12月12日 – 1880年5月8日 (58歳没)
ギュスターヴ・フロベールの人物情報
フランスの小説家である。ルーアンの市立病院で外科部長の息子として生まれた。法律を学んでいたが、22歳で神経の発作に倒れて学業をやめ、ルーアン郊外のクロワッセで母と暮らしながら書くことに打ち込んだ。4年半かけて書いた『ボヴァリー夫人』は、雑誌に連載されると風俗を乱すとして起訴されたが、無罪となって評判を呼んだ。原稿を声に出して読み、言葉を選び抜く推敲で知られ、写実主義の代表とされる。ほかに『サランボー』『感情教育』『三つの物語』がある。モーパッサンを育てたことでも知られる。
同時代の人物
1821年生まれの同い年には、ロシアのドストエフスキー(DB名「フョードル・ドストエフスキー」)がいる。19世紀の小説を代表する二人は、フロベールが1880年5月に亡くなると、ドストエフスキーも1年たたないうちに世を去った。2歳上には、「写実主義」を名乗った画家のクールベ(DB名「ギュスターヴ・クールベ」)がいる。トロイア遺跡を掘ったシュリーマン(DB名「ハインリヒ・シュリーマン」)は、フロベールの25日後、1822年1月に生まれた。
日本では、洋画家の高橋由一が6歳下である。由一が油彩「鮭」を描いた明治10年(1877年)ごろ、フロベールは『三つの物語』を出していた。
年齢で見る生涯
29歳で書き始めた『ボヴァリー夫人』が本になったのは35歳のときである。生前に出た長編小説は、これと『サランボー』『感情教育』の3作だけだった。
人物のつながり
エピソード
ぶどう棚から覗いた解剖講堂(少年時代)
フロベール家は、父が外科部長を務めるルーアンの市立病院オテル=ディユの一角に住んでいた。31歳の1853年、詩人ルイーズ・コレへの手紙で、子どものころをこう振り返っている。病院の解剖講堂は一家の庭に面していた。妹と何度も格子垣によじ登り、ぶどうの蔓にぶら下がるようにして、日の当たる台に並ぶ遺体を眺めた。自分たちや庭の花のまわりを飛ぶのと同じハエが、遺体にもとまっていた。解剖の手を止めて顔を上げ、「向こうへ行きなさい」と言う父の姿も覚えていたという。早世した妹の亡骸に2晩付き添ったときも、この光景を思い出したと書いている。
ナイルの急流で「エウレカ!」(28歳・1850年)
1849年11月、フロベールはデュ・カンとマルセイユを発った。ナイルを船でさかのぼり、翌年3月には旅の最南端ワディ・ハルファに達している。デュ・カンの『文学的回想』によれば、第二急湍を見下ろす岩山の頂で、黒い花崗岩にぶつかる流れを眺めていたフロベールが突然叫んだ。「見つけた! エウレカ! エウレカ! エンマ・ボヴァリーと名づけよう」。そして「ボ」を短く発音しながら、その名を何度も口にしたという。ただし、この回想が出たのはフロベールの死後である。研究者の間では、名前の大切さを印象づけるためのデュ・カンの脚色ではないかとみる声もある。
机の上の剥製のオウム(54歳・1876年)
1876年夏、フロベールは短編「素朴な心」を書いていた。女中フェリシテが可愛がったオウムのルルは、死後に剥製にされ、やがて彼女のなかで聖霊と重なっていく。友人のロジェ・デ・ジュネット夫人に宛てた手紙によれば、フロベールは「実物を見て描く」ために、剥製のオウムを1か月前から机に置いていた。「そろそろうんざりしてきたが、かまわない。魂をオウムで満たすために置いておく」。同じ手紙には、日の出まで眠らずに働き、静かな書斎で胸が裂けるほど大声で原稿を読み上げていること、唯一の運動は夕食前にセーヌ川で泳ぐことだとも書いている。声に出して文章を確かめるこの習慣は、「gueuloir(怒鳴り場)」の名で知られる。オウムはルーアンの博物館から借りたものと伝えられる。
出典・参考資料