カミッロ・カヴール
カヴール
Cavour, Camillo
1810年8月10日 – 1861年6月6日 (50歳没)
カミッロ・カヴールの人物情報
イタリアの政治家である。1810年、トリノの貴族の家に次男として生まれ、陸軍の工兵将校になったが21歳で軍を離れた。その後は家領で農場経営に打ち込み、パリやロンドンにもたびたび滞在して自由主義の政治と経済を学んだ。1847年に新聞「イル・リソルジメント」を創刊し、1852年にサルデーニャ王国の首相となる。クリミア戦争への参戦やナポレオン3世との密約で列強を味方につけ、1859年にはオーストリアと戦ってロンバルディアを得た。1861年にイタリア王国の初代首相となったが、その3か月足らず後に50歳で急死した。母語はフランス語で、イタリア語で書くことには苦労したという。
同時代の人物
カヴールと同じ1810年には、3月にショパン、6月にシューマンが生まれている。日本では、適塾の緒方洪庵がカヴールのわずか3日後、8月13日に生まれた。カヴールが亡くなった1861年、洪庵(数え52歳)はまだ大坂で適塾を開いていた。
1歳上のリンカーンが大統領に就任したのは1861年3月4日である。その13日後にイタリア王国が成立し、カヴールが初代首相になった。5歳下のビスマルクがプロイセンの首相に就いたのは、カヴールの死の翌年の1862年だった。
年齢で見る生涯
首相を務めたのは、半年の空白をはさんで8年あまりである。その間に、北イタリアの小国の首相から統一国家の首相になった。
人物のつながり
エピソード
「無許可で本を持っていた」として11日間の拘禁(10〜13歳・1821〜23年)
カヴール財団が公開しているトリノ王立陸軍士官学校の記録を見ると、少年カヴールはなかなかの問題児だった。1821年1月には、数学のノートが乱雑だとして処分を受けている。翌1822年2月には教官の指示に従わず、「重大な不服従」としてパンと水だけで3日間閉じ込められた。13歳になった直後の1823年8月には、「上官の許可なく本を持っていた」という理由で、11日間の拘禁を言い渡された。一方で表彰も何度も受けており、罰と褒美を行き来する毎日だった。
パリのクラブ見聞記が、女性作家の小説にほぼそのまま使われる(27〜28歳・1838年)
1838年5月、カヴールはパリの社交クラブ「ジョッキー・クラブ」に出入りを許され、その内側をフランス語で書き残した。許される遊びはビリヤードとホイストだけ、政治の話は禁止、「女性が敷居をまたいだことは一度もない」。親しかった作家メラニー・ヴァルドールに頼まれて書いたものらしい。ヴァルドールは1839年の小説『アルフォンスとジュリエット』にこの文章をほぼそのまま写し、ピエモンテ出身の「モンレッリョ伯爵」まで登場させた。カヴールがモデルであることは、研究者ルッフィーニが論証している。
破門された首相に秘跡を授けた修道士(50歳・1861年)
1861年6月5日、死の床のカヴールは近所の教会の主任司祭フラ・ジャコモを呼んだ。カヴールは前年3月に教皇ピウス9世が出した破門の対象で、公に撤回しなければ臨終の赦しも無効とされていた。だが修道士は撤回を求めずに告解を聞き、聖体を授けた。翌日カヴールは亡くなる。修道士はローマに呼ばれ、定めに背いたと文書で認めるのを拒んで聖職停止となった。2010年に見つかった1882年の嘆願書で、彼は「悲しみ悔いる哀れな老人」として許しを願い、1884年にようやく復帰した。
出典・参考資料