マクシミリアン・ロベスピエール

ロベスピエール

Robespierre, Maximilien

1758年5月6日 – 1794年7月28日 (36歳没)

フランス 政治家

マクシミリアン・ロベスピエールの人物情報

フランス革命期の政治家。北フランスのアラスで弁護士の家に生まれ、パリのルイ=ル=グラン学院で学んだのち、郷里で弁護士となった。1789年に全国三部会の第三身分議員に選ばれ、ジャコバン・クラブを拠点に男子普通選挙や死刑廃止を唱えて「清廉の士」と呼ばれた。1793年に公安委員会に入ると、戦争と内乱のなかで恐怖政治を主導し、エベール派やダントン派も処刑台に送った。1794年7月、テルミドール9日のクーデタで逮捕され、翌日36歳でギロチンにかけられた。

同時代の人物

ロベスピエールが生まれた1758年には、のちの米大統領ジェームズ・モンローが8日早く、英海軍のネルソンが9月に生まれている。処刑台に消えた革命家と、73歳まで生きた大統領、トラファルガーで戦死する提督が同い年である。翌1759年生まれのドイツの詩人シラーは、1792年にフランスの名誉市民に選ばれている。

半年年上のエベールとは、革命の同志からやがて敵同士となった。日本では2歳下に葛飾北斎、3歳下に山東京伝がいる。ロベスピエールが処刑された1794年、北斎はまだ33歳で、『冨嶽三十六景』は30年以上先の仕事である。

年齢で見る生涯

  • 6歳(1764年) 母が亡くなり、ほどなく父も家を出る。兄弟は祖父母やおばに引き取られた
  • 11歳(1769年) 奨学生としてパリのルイ=ル=グラン学院に入学
  • 23歳(1781年) 法学の学位を得てアラスに戻り、弁護士となる
  • 30歳(1789年) 全国三部会の議員に選ばれ、パリへ出る
  • 33歳(1791年) 憲法制定国民議会で死刑廃止を訴える
  • 34歳(1792年) 国民公会で国王の処刑を求める
  • 35歳(1793年) 公安委員会の委員となる
  • 36歳(1794年) 6月に最高存在の祭典を主宰し、同じ週にプレリアル22日法が成立。7月27日に逮捕され、翌28日に処刑

30歳まではアラスの一弁護士にすぎず、国政の中心にいたのは公安委員会に入ってからのちょうど1年だった。

人物のつながり

  • ルイ16世:4歳上。1775年、学院の優等生として国王夫妻にラテン語の祝辞を読んだ。17年後の1792年12月には国民公会で「祖国が生きるためにルイは死なねばならない」と演説している。
  • エベール:パリの民衆運動を率いた急進派。非キリスト教化運動などで対立し、1794年3月に公安委員会の手で処刑された。
  • ダヴィド:画家でジャコバン派の盟友。最高存在の祭典を演出した。テルミドール8日の夜、「君が毒杯をあおるなら私も飲む」と言ったと伝えられるが、翌日の議場には姿を見せなかった。
  • ナポレオン・ボナパルト:11歳下。弟オーギュスタンに目をかけられていたため、テルミドールの後に一時逮捕された。

エピソード

避雷針を守り、フランクリンに弁論を送る(25歳・1783年)

1780年、サン=トメールのヴィスリ氏がフランクリンの著作を読んで自宅に避雷針を立てると、雷を呼ぶと恐れた近所の訴えで、市の参事会が撤去を命じた。控訴審の弁護に加わったのがロベスピエールで、1783年5月の弁論で勝訴し、新聞に「類まれな才能の若い弁護士」とたたえられた。同じ年の10月、彼は印刷した弁論を当のフランクリンに送り、「人類があなたに負う崇高な発見」の弁護ができたと書き添えている。翌年に亡くなったヴィスリ氏は、遺言で相続人に避雷針を守るよう義務づけている。

愛犬ブラウント(33〜36歳・1791〜94年)

1791年7月から、ロベスピエールはパリの指物師デュプレの家に下宿していた。傍らにいたのは、郷里アラスから連れてきたと伝えられる大型犬ブラウントである。家の末娘エリザベート(のちのル・バ夫人)の回想によれば、一家のシャンゼリゼ散歩には彼も加わり、踊るサヴォワの子どもたちに小銭を与えて眺めていたという。「彼はブラウントという犬をたいそうかわいがり、犬もよくなついていた」。ただしこの回想は後年に書かれたもので、後世の伝記作家がさらに美しく脚色したことも指摘されている。

死刑に反対した男と恐怖政治(24〜36歳・1782〜94年)

妹シャルロットの回想によれば、アラスの判事として殺人犯に死刑を言い渡したとき、彼は2日間食事がのどを通らず、「悪人だとはわかっている。だが人を死なせるとは」と繰り返したという。1791年5月には議会で「死刑は本質的に不正である」と演説した。しかし3年後、彼が主導した公安委員会のもとで、被告から弁護人を奪い刑を死刑のみとするプレリアル22日法が成立し、以後の約7週間でパリだけで1,376人が死刑となった。恐怖政治全体では、裁判による死刑が約1万7千人、獄死などを含めると3万5千〜4万人が亡くなったとされる。

出典・参考資料

  • Wikipedia(fr)「Maximilien de Robespierre」「Loi du 22 prairial an II」「Terreur (Révolution française)」、Wikipedia「マクシミリアン・ロベスピエール」
  • Archives départementales du Pas-de-Calais「L'affaire du paratonnerre de Saint-Omer」(https://www.archivespasdecalais.fr/Decouvrir/Un-document-a-l-honneur/L-affaire-du-paratonnerre-de-Saint-Omer)、Pagart d'Hermansart『Le paratonnerre de Saint-Omer en 1780 : le testament de M. de Vissery』(Gallica)、BnF所蔵『Plaidoyer pour le sieur de Vissery de Bois-Vallé』(署名 de Robespierre)
  • Robespierre à Benjamin Franklin, Arras, 1er octobre 1783(The Papers of Benjamin Franklin, vol. 41 / https://founders.archives.gov/documents/Franklin/01-41-02-0038)
  • G. Lenotre『Robespierre et la « Mère de Dieu »』第5章(Wikisource。エリザベート・ル・バの手記を引用し、後世の脚色を指摘)、Stéfane-Pol『Autour de Robespierre. Le conventionnel Le Bas』(1901年、ル・バ夫人の手記を収録)
  • 『Mémoires de Charlotte Robespierre sur ses deux frères』(1835年、Laponneraye 編)
  • Robespierre「Discours sur la peine de mort」(1791年5月30日、Œuvres complètes de Maximilien de Robespierre 第7巻)