フリードリヒ2世
フリードリヒ
Friedrich II
1712年1月24日 – 1786年8月17日 (74歳没)
フリードリヒ2世の人物情報
プロイセンの第3代国王で、在位は1740年から86年まで。「大王」と呼ばれる。即位の年にオーストリア領シュレージエンに攻め込み、その後の七年戦争ではオーストリア、フランス、ロシアを相手に戦い抜いて、この地を守りきった。一方で拷問の廃止や宗教の寛容を進め、自らを「国家第一の僕」と称した啓蒙専制君主の代表でもある。フルートを吹き、作曲もした。ヴォルテールと文通し、ポツダムにサンスーシ宮殿を建て、著作は主にフランス語で書いた。
同時代の人物
フリードリヒが生まれた1712年の前後には、18世紀を長く治めた君主がそろって生まれている。中国の乾隆帝はわずか4か月年上で、在位はどちらも40年を超えた。フランスのルイ15世は2歳上、生涯のライバルマリア・テレジアは5歳下である。
同じ1712年には、ヴェネツィアの景観画家フランチェスコ・グァルディが生まれた。宮廷でフリードリヒのフルートの伴奏をしたカール・エマヌエル・バッハは2歳下になる。日本では、与謝蕪村と伊藤若冲がともに4歳下の1716年生まれ。フルートを吹く王と、京の絵師・俳人は同世代だった。
フリードリヒが亡くなった1786年、モーツァルトは30歳、ゲーテは37歳、葛飾北斎は数え27歳だった。プロイセンの臣民だったカントは62歳で、2年前の論文「啓蒙とは何か」で自分の時代を「フリードリヒの世紀」と呼んでいる。
年齢で見る生涯
在位46年のうち、戦争に明け暮れたのは最初の23年ほどです。51歳で七年戦争を終えてからの後半生は、戦後の立て直しと内政に費やしました。
人物のつながり
エピソード
愛犬になりきって、姉に「恋文」を書く(36歳・1748年)
1745年9月30日、ゾーアの戦いで、王の愛犬のグレーハウンド「ビッシュ」が、オーストリアのナーダシュディ将軍の部隊に奪われた。王は後年の手紙にも、奪われた日付と、犬を引いていた従僕の名まで書き残している。ビッシュが王の元に戻ってから3年後の1748年、姉ヴィルヘルミーネの愛犬フォリションの名で、ビッシュ宛ての「恋文」が届いた。王はビッシュになりきって返事を書く。「うちの主人が自分をグレーハウンドだと名乗らないのは、四つ足で走るのが面倒だからにすぎない」と、自分をからかう一文まで入れている。
オペラで宗教の「野蛮」を皮肉る(41〜42歳・1753〜55年)
王はオペラの台本も書いた。題材はコルテスによるアステカ帝国の征服である。1753年10月、友人アルガロッティへの手紙に「私はモンテスマの肩を持つ。コルテスが暴君だ」と書き、音楽に乗せてキリスト教の野蛮さに皮肉が言えると続けた。そのうえで「あなたは異端審問の国(イタリア)にいるのでしたね、失礼」と詫びている。王がフランス語の散文で書いた筋はイタリア語の韻文に直され、グラウンが作曲した。1755年1月6日にベルリンで初演されている。君主を讃えて終わるのが決まりのオペラ・セリアなのに、善良な皇帝が殺されて幕を閉じる異例の作品だった。
ジャガイモ王は、ジャガイモを食べなかった(44歳・1756年)
1756年3月24日、王は各地の役人に、ジャガイモの栽培を広めるよう命じる回状を出した。いわゆる「ジャガイモ令」で、これは事実である。一方、日本でもよく語られる「畑を兵に見張らせて貴重品だと思わせ、わざと農民に盗ませた」という話がある。2012年にポツダムで開かれた展覧会「王とジャガイモ」の共同キュレーターは、これはフランスのパルマンティエの逸話だと指摘している。ジャガイモを持ち込んだのも王ではなく、1650年代の曾祖父・大選帝侯である。サンスーシ宮殿を管理する財団によれば、王自身はジャガイモを食べておらず、そのことは1932年に証明されていた。王の命令の効果は小さく、ジャガイモが広まったのは19世紀になってからだった。それでも王の墓には、今も季節を問わずジャガイモが供えられている。
出典・参考資料