メフメト2世

メフメト2世

メフメト

Mehmet II

1432年3月30日 – 1481年5月3日 (49歳没)

トルコ 王侯

メフメト2世の人物情報

オスマン帝国の第7代スルタンで、在位は1444〜46年と1451〜81年の2度。12歳で父ムラト2世から位を譲られたが、2年ほどで父が復位し、18歳で改めて即位した。1453年、21歳でコンスタンティノープルを攻め落としてビザンツ帝国を滅ぼし、この町を新しい都とした。その後もバルカン半島や黒海沿岸へ領土を広げ、トルコでは「ファーティフ(征服者)」と呼ばれる。ギリシア人学者やイタリアの画家を宮廷に招くなど、東西の学芸にも強い関心を寄せた。

同時代の人物

ヴェネツィアの画家ジョヴァンニ・ベリーニは1430年頃の生まれで、ほぼ同世代である。日本では、狩野派の祖狩野正信が2歳下にあたる。正信はメフメトの死後も50年近く生き、1530年に亡くなった。

意外な組み合わせでは、活版印刷のグーテンベルクがいる。陥落の翌年末にマインツで刷られた『トルコ人に対するキリスト教世界への警告』は、対トルコ戦を諸侯に呼びかける暦形式の小冊子で、完全な形で残る最古の活版印刷本とされる。刷ったのはグーテンベルクの周辺の「36行聖書の印刷者」だった。

年齢で見る生涯

日付は当時のユリウス暦による。DBの生没日(1432年3月30日〜1481年5月3日)もユリウス暦で、TDV İslâm Ansiklopedisi と一致する。

  • 12歳(1444年6月) 父ムラト2世から位を譲られ、最初の即位
  • 14歳(1446年8月) イェニチェリの反乱などを機に父が復位し、マニサへ戻される
  • 18歳(1451年2月18日) 父の死で再び即位。すぐに乳飲み子の弟アフメトを絞殺させた。のちに法令集にも「世界の秩序のために兄弟を殺すことは許される」という条項を置く
  • 21歳(1453年4月22日) ガラタの丘越しに艦隊を陸上で運び、金角湾に入れる
  • 21歳(1453年5月29日) 54日間の包囲の末、コンスタンティノープルが陥落。兵士に略奪が許され、住民の多く(約3万人とされる)が捕虜として連れ去られた
  • 29歳(1461年) 黒海沿岸のトレビゾンド帝国を征服
  • 47〜48歳(1479年9月〜1481年1月) ジェンティーレ・ベリーニが宮廷に滞在し、肖像を描く
  • 49歳(1481年5月3日) 新たな遠征に出た直後、ゲブゼ近くのヒュンキャルチャユルで死去

2度目の即位から2年余りで都を落としたことになる。死因は痛風とされる。毒殺説もあるが、年代記作者アシュクパシャザーデの記述の解釈から出たもので、他の史料では裏付けられていない。

人物のつながり

  • ゲンナディオス2世(ゲオルギオス・スホラリオス):メフメトが征服後に総主教に任じた学者。東西教会の合同に反対していた。
  • ジェンティーレ・ベリーニ:ジョヴァンニ・ベリーニ(→20060604000)の兄。メフメトの求めでヴェネツィアから送られ、1480年に肖像を描いた(ロンドン、ナショナル・ギャラリー所蔵)。
  • スレイマン1世:曾孫。メフメトの都イスタンブルを壮麗な建築で飾った。

エピソード

落書き帳に残る横顔と書きかけの花押(少年期・1440年代と推定)

トプカプ宮殿博物館に、180葉ほどの古い帳面が伝わる。大半は白紙だが、馬の頭や鳥、ターバンを巻いた人物の横顔、キリスト教徒らしい肖像が描かれ、スルタンの花押「トゥグラ」を書きかけた跡や、ギリシア文字の書き取りも並ぶ。1961年に研究者スヘイル・ユンヴェルが「ファーティフの子ども時代の帳面」として発表し、皇子メフメトの落書き帳とされてきた。ただし帳面に持ち主の名はない。歴史家エメジェンは、宮廷の小姓や人質のバルカンの王子たちのものである可能性が高いとみている。

総主教に「キリスト教とは何か」を尋ねる(23〜24歳・1455〜56年)

美術史家セマーヴィー・エイジェによれば、メフメトは総主教座が置かれたパンマカリストス修道院(現フェトヒイェ・ジャーミイ)を訪れ、ゲンナディオスとキリスト教について議論した。その内容が「ゲンナディオスの信仰告白」として知られる。スルタンの求めで1455年か56年に書かれたこの文書は、カラフェリエ(現ギリシアのヴェリア)の法官アフメトがトルコ語に訳した。ギリシア文字で書かれたその訳文は、トルコ語をギリシア文字で記す「カラマンル文献」の最初の例とされる。

「プトレマイオスの地図を1枚にまとめよ」(33歳・1465年)

トレビゾンドの学者ゲオルギオス・アミルツェスは、1461年の征服後にメフメトに仕えた。二人は哲学を論じ合い、歴史家クリトヴロスは「スルタンは最も鋭い知性をもつ哲学者の一人」と書いた。1465年の夏、メフメトは古代の地理学者プトレマイオスの『地理学』の写本を手に取った。そして地域ごとの地図をつなげて1枚の世界図にするよう、アミルツェスに命じた。地図は残っていないが、メフメトは手厚い褒美を与え、親子に本文のアラビア語訳も命じた。訳本は今もスレイマニイェ図書館に2部あり、1部には彩色の地図が入っている。

出典・参考資料

  • TDV İslâm Ansiklopedisi「MEHMED II」(Halil İnalcık、第28巻、2003年)、Wikipedia(en)「Fall of Constantinople」(4月22日の艦隊陸送、略奪と捕虜の数)、National Gallery「Gentile Bellini, The Sultan Mehmet II」と作家解説「Gentile Bellini」、Gesamtkatalog der Wiegendrucke「Mahnung wider die Türken」
  • tarihvemedeniyet.org「Fatih'in Çocukluk Defteri Efsane Mi Gerçek Mi?」(Süheyl Ünver の1961年の研究、TSMK の所蔵番号、Feridun Emecen の見解)、gzt.com「Fatih Sultan Mehmet'in çocukken tuttuğu not defteri」
  • TDV İslâm Ansiklopedisi「FETHİYE CAMİİ(İstanbul)」(Semavi Eyice)
  • Johann Strauss「Osmanlı İstanbul'unda Türkçe'den Başka Dillerde Edebiyatlar」(Büyük İstanbul Tarihi、istanbultarihi.ist)
  • Ahmet T. Karamustafa「Military, Administrative, and Scholarly Maps and Plans」(The History of Cartography 第2巻第1分冊、シカゴ大学出版局、1992年)
  • TDV İslâm Ansiklopedisi「MEHMED II」(クリトヴロスの引用、アミルツェス親子による翻訳と世界図)、同「COĞRAFYA」
  • 「Il ritratto del mondo alla corte di Maometto II: il contributo di Giorgio Amiroutzes e Mehmed Beg alla traduzione della 'Geographia' di Tolomeo (1465)」(Università di Trieste、openstarts.units.it、要旨のみ確認)