世宗
セジョン(別名:세종)
Sejong
1397年5月7日 – 1450年3月30日 (52歳没)
世宗の人物情報
朝鮮王朝の第4代国王(在位1418〜50年)。父の太宗の三男で、兄の廃位を受けて21歳で即位した。学問機関の集賢殿を拡充して若い学者を集め、1443年に民衆のための文字「訓民正音」(ハングル)を創り、1446年に公布した。雨量計(測雨器)や水時計(自撃漏)、金属活字の改良、農書『農事直説』の編纂など、科学と実用の分野でも成果を残している。北方では四郡六鎮を置いて国境を広げ、日本とは対馬遠征を経て癸亥約条で通交の枠組みを定めた。
同時代の人物
世宗が生まれた1397年には、フィレンツェの天文学者・地理学者パオロ・トスカネリも生まれている。翌1398年生まれとされるグーテンベルクとはほぼ同い年だ。世宗は1434年に銅活字「甲寅字」を鋳造させ、グーテンベルクは1450年頃に活版印刷を実用化した。ユーラシアの東と西で、同世代の2人がそれぞれ活字に力を注いでいたことになる。
即位したころの明の皇帝は永楽帝で、その命で大航海を率いた鄭和の最後の航海(1431〜33年)も世宗の在位中のことである。ヨーロッパではブルネレスキがフィレンツェ大聖堂のドームを1436年に完成させた。自撃漏が完成した2年後だ。
日本では、画僧の雪舟が1420年に生まれている。世宗が集賢殿を拡充した年で、世宗が亡くなったとき雪舟はまだ30歳だった。雪舟が明に渡るのは、世宗の死から17年後のことである。
年齢で見る生涯
即位から4年間は、父の太宗が軍事を握る「二人体制」だった。ハングルの創製は46歳のときで、即位から25年後にあたる。晩年の世宗は目の病などに苦しんでおり、主な事績の多くは30代から40代に集中している。
人物のつながり
エピソード
「王は肉がなければ食事ができない」(25歳・1422年)
太宗が亡くなると、世宗は儒教の礼に従って喪中の肉食を断ち、野菜だけの食事を続けた。ところが数か月にわたって体調を崩し、やせ衰えてしまう。そこで重臣たちが持ち出したのが、太宗が生前に残した言葉だった。実録によれば、太宗は「主上は肉でなければ食事が進まない。わしが死んだ後は、事情に合わせて喪の決まりを変えて済ませよ」と言い残していたという。臣下が繰り返し願い出たすえ、世宗はようやく肉を受け入れた。息子の食の好みまで見越していた、父の遺言である。
17万人に賛否を聞いた税制改革(33歳・1430年)
田の税を定額にする「貢法」を導入するにあたり、世宗は1430年の春、官僚だけでなく地方の役人、さらに「閭閻の小民」(村の庶民)にまで賛否を尋ねるよう命じた。約5か月かけて集まった結果は、賛成9万8657人、反対7万4149人。土地の肥えた南部では賛成が多く、やせた北部では反対が多かった。世宗は賛成多数でもすぐには施行せず、地域差への不満を受け止めて検討を続けた。土地の等級と作柄で税を細かく分ける修正版の貢法ができたのは、14年後の1444年のことである。
夫にも30日の産休(37歳・1434年)
世宗は1426年、官庁に属する女性の奴婢(官婢)に産後100日の休みを与えることを定めとし、のちに出産前の1か月も休めるようにしていた。1434年には刑曹(司法を担う役所)に命じ、その夫にも満30日の休みを与えさせる。理由として世宗は、夫が休めないために産婦を助けられず、命を落とす者まで出ていると述べている。日本でもよく紹介される話だが、身分の最も低い人々を対象にした制度だった点は見落とせない。
出典・参考資料