フィリッポ・リッピ
リッピ
Lippi, Fra Filippo
1406年 – 1469年 (約63歳没)
フィリッポ・リッピの人物情報
初期ルネサンスのフィレンツェの画家で、カルメル会の修道士。1406年ごろ、肉屋の子としてフィレンツェに生まれ、1421年にカルミネ修道院で誓願を立てた。マザッチオの仕事を間近で見て育ち、柔らかな線と明るい色の聖母子像で人気を得た。プラート大聖堂の内陣に「聖ステファヌスと洗礼者ヨハネの生涯」を描いた。修道女ルクレツィア・ブーティとの間に、のちに画家となる息子フィリッピーノがいる。1469年10月、スポレート大聖堂の壁画を制作中に亡くなった。
同時代の人物
2歳ほど上のアルベルティ(レオン・バッティスタ・アルベルティとも)とはほぼ同世代である。5歳ほど上のマザッチオは、リッピがまだ20歳そこそこのうちに亡くなった。10歳ほど下にはピエロ・デラ・フランチェスカがいる。
活版印刷のグーテンベルクは8歳ほど上で、リッピより1年半あまり早い1468年2月に世を去った。日本の雪舟は14歳ほど下で、リッピが亡くなる2年前の1467年に明へ渡っている。リッピが亡くなったとき、弟子のボッティチェリ(サンドロ・ボッティチェルリとも)は25歳、レオナルド・ダ・ヴィンチはまだ17歳だった。
年齢で見る生涯
13年がかりのプラートの壁画の間に、裁判、出奔、告発が次々に起きた。代表作の多くは、50歳前後の最も騒がしい時期のものである。
人物のつながり
エピソード
偽の受領書と拷問(44〜49歳ごろ・1450〜55年)
1450年、かつての助手の画家ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコが、40フィオリーノの未払いでリッピを訴えた。リッピは、助手の署名を偽った受領書を出して対抗した。1455年に裁判となり、投獄されたリッピは拷問を受けて罪を認めたという。5月19日には、教皇から与えられていたサン・クイリコ・ア・レニャーイアの院長職も解かれた。このころは円形画の納期遅れで違約金を取られ、別の絵の代金でも争うなど、もめ事が絶えなかった。
コジモに閉じ込められた画家(年代不詳)
ヴァザーリ(ジョルジョ・ヴァザーリとも)の『美術家列伝』によれば、コジモは自宅で絵を描かせていたリッピが外で遊ばないよう、部屋に鍵をかけた。ところがリッピは2日で我慢できなくなり、ある晩はさみでシーツを裂いて紐にし、窓から抜け出して何日も戻らなかった。連れ戻したコジモは閉じ込めたことを悔やみ、以後は自由にさせたという。「まれな才能は天の産物で、荷運びのロバではない」と語ったと伝えられる。
スポレートが手放さなかった遺体(没後・1487年ごろ)
スポレートで急死したリッピは、まず大聖堂の中央扉の前の質素な墓に葬られた。ロレンツォ・デ・メディチはフィレンツェの大聖堂に移そうと遺体を求めたが、ヴァザーリによれば、スポレートの人々は「この町は飾り、とりわけ優れた人物に乏しい」と断った。そこでロレンツォは1487年ごろ、フィリッピーノの設計で大理石の墓を建て、ポリツィアーノに墓碑銘を書かせた。銘はリッピの一人語りで、「自然さえ私の描いた姿に驚いた」と誇り、「それまで私は粗末な塵に覆われていた」と結ぶ。
出典・参考資料