マザッチオ

マザッチオ

マザッチオ(別名:マサッチオ)

Masaccio

1401年12月21日 – 1428年 (約27歳没)

イタリア 絵画

マザッチオの人物情報

初期ルネサンスのフィレンツェの画家。本名はトンマーゾ・ディ・セル・ジョヴァンニ・ディ・モーネ。1401年、カステル・サン・ジョヴァンニ(いまのサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ)に公証人の子として生まれた。20歳でフィレンツェの画家の組合に登録し、年上のマゾリーノとともにカルミネ聖堂のブランカッチ礼拝堂に「貢の銭」「楽園追放」などを描いた。サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の「三位一体」では、ブルネレスキの線遠近法を絵画に本格的に取り入れた。量感のある人物と一方向からの光で、絵の中に現実の空間をつくり出した。1428年、ローマで26歳で亡くなった。

同時代の人物

2歳下のアルベルティ(レオン・バッティスタ・アルベルティとも)は、1436年の『絵画論』イタリア語版の序文で、ブルネレスキ(フィリッポ・ブルネレスキとも)やドナテッロ(ドナテルロとも)と並べてマザッチオの名を挙げ、古代の名匠に劣らないと称えた。マザッチオが亡くなって8年ほど後のことである。

アルプスの北では、11歳ほど上のヤン・ファン・エイクが油彩の写実を極めつつあった。朝鮮の世宗は4歳上である。日本の雪舟は、マザッチオが亡くなったときまだ7〜8歳だった。

年齢で見る生涯

  • 20歳(1422年1月) フィレンツェの医師・薬種商組合に画家として登録される
  • 22〜23歳(1424〜25年頃) マゾリーノとブランカッチ礼拝堂を描き始める。1425年夏、マゾリーノはハンガリーへ発つ
  • 24歳(1426年2月18日) ピサのカルミネ聖堂の祭壇画を請け負う
  • 25歳(1427年7月29日) 自筆の資産申告書を出す
  • 26歳(1428年) 春にローマへ向かい、その年のうちに死去。ヴァザーリは毒殺を疑う者もいたと書くが、伝聞にすぎない
  • 没後(1980年代) ブランカッチ礼拝堂の修復で、後世に描き加えられたアダムとエバのイチジクの葉が取り除かれる

組合への登録から死まで、わずか6年あまりである。後の画家たちが手本にした仕事は、すべて20代の数年間に描かれた。

人物のつながり

  • ブルネレスキ(フィリッポ・ブルネレスキとも):24歳上の建築家。ヴァザーリによれば、遠近法と建築の決まりを熱心に教え、訃報には「われわれはマザッチオで大きな損失をこうむった」と嘆いたという。
  • マゾリーノ:18歳ほど上の画家。昔は師弟とされたが、いまは対等な協力者とみられている。
  • フィリッポ・リッピ:1421年にカルミネ修道院で誓願を立てた修道士で、礼拝堂で描くマザッチオを間近で見ていた。ヴァザーリは「マザッチオの弟子」と呼ぶ。その息子フィリッピーノが、1481〜83年に未完の礼拝堂を仕上げた。

エピソード

「だらしないトンマーゾ」の借金(25歳・1427年)

「マザッチオ」は「だらしないトンマーゾ」ほどの意味のあだ名である。ヴァザーリは、絵のことしか頭になく、身なりにも構わず、貸した金も本当に困るまで取り立てなかったからだと説明する。ところが本人が書いた1427年の資産申告書に見えるのは、借りる側の姿だ。画家仲間のニッコロ・ディ・セル・ラーポに、102リラ14ソルド(25フィオリーノあまり)の借金があった。1431年1月、ニッコロは自分の申告で、まだ78リラ残るこの貸しを取り立てられないものとして届け出ている。借り手はもう、この世にいなかった。

木靴のブルネレスキ(20代・1422年の献堂式を描く)

1422年4月19日、カルミネ聖堂の献堂式が行われた。マザッチオは回廊の扉の上に、その行列を緑がかった単色のフレスコで描いた。ヴァザーリによれば、マントと頭巾の市民が5、6人ずつ並び、奥へ行くほど正しい比率で小さくなる。その中に、木靴を履いたブルネレスキ、ドナテッロ、マゾリーノ、メディチ家のジョヴァンニ・ディ・ビッチがいた。鍵を手にした修道院の門番まで描かれていたという。この絵は1600年ごろの回廊の改築で壊され、写しとされる素描が残るだけである。

ヴァザーリが褒め、そして隠した「三位一体」(没後・1570年)

ヴァザーリ(ジョルジョ・ヴァザーリとも)は1568年の『芸術家列伝』で、「三位一体」の天井を「壁に穴が開いているように見える」と絶賛した。ところが2年後の1570年、聖堂の改装を任された彼自身が、寄進者の未亡人の遺志に従い、壁画の前に石の祭壇と自作の板絵を据えた。壁画は1861年に再発見され、はがされて入口側の壁に移された。1951年には下に描かれた骸骨の墓も見つかり、翌年全体が元の壁に戻った。骸骨の上には「私はかつて君たちと同じだった。君たちもやがて私と同じになる」とある。ヴァザーリが絵を守るためにわざと覆ったのかどうかは、わかっていない。

出典・参考資料

  • Treccani『Dizionario Biografico degli Italiani』「MASACCIO(Tommaso di ser Giovanni di Mone)」(生年月日・生地、父が公証人、1422年1月の組合登録、ブランカッチ礼拝堂の開始とマゾリーノの出発、1426年のピサの祭壇画、1427年7月29日の申告、1428年春のローマ行き、死去、「サグラ」の破壊時期)、Treccani DBI「BRUNELLESCHI, Filippo」「LIPPI, Filippo」(ブルネレスキの生没年、リッピの誓願と礼拝堂の見学)、Musei Civici Fiorentini(フィレンツェ市)「La Cappella Brancacci」パンフレット(1423年の注文、マゾリーノとの関係、フィリッピーノの1481〜83年の完成、1980年代の修復)、Wikipedia(en)「Masaccio」(イチジクの葉の除去、年齢)、Wikipedia(it)「Masaccio」、Alberti『Della pittura』序文(1436年)、人名辞典DB(同時代人の生年)
  • Giorgio Vasari『Le vite de' più eccellenti pittori, scultori e architettori』1568年版「Vita di Masaccio da S. Giovanni di Valdarno」(Wikisource の翻刻)(あだ名の由来、サグラ、三位一体の格天井、毒殺の噂、ブルネレスキの言葉、礼拝堂で学んだ画家たち)
  • Anna Padoa Rizzo「L'educazione di Masaccio. Documenti, problemi, proposte」(『Mitteilungen des Kunsthistorischen Institutes in Florenz』46巻、2002年。ilmondodellafotografia.it の転載で参照)(ニッコロへの借金、バディアの工房、1430/31年の78リラ)
  • Treccani DBI(1431年のニッコロの申告)
  • Finestre sull'Arte「Una nuova pittura: la Trinità di Masaccio」(1570年の祭壇、1861年の再発見、ガエターノ・ビアンキによる剥離、1951年の骸骨部分の発見、1952年の復元、銘文)
  • Santa Maria Novella 公式サイト「Masaccio's Holy Trinity」(カミッラ・カッポーニの遺志による1570年の祭壇)