ウィリアム3世

ウィリアム3世

ウィリアム

William III

1650年11月14日 – 1702年3月8日 (51歳没)

イギリス 王侯

ウィリアム3世の人物情報

オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の総督で、のちにイングランド、スコットランド、アイルランドの王(在位1689〜1702年)。オランダ語名はウィレム3世。1672年、フランス軍の侵攻で国が危機に陥るとホラント州などの総督に就き、ルイ14世への抵抗を率いた。1688年、妃メアリーの父ジェームズ2世が治めるイングランドに上陸して王を亡命させ(名誉革命)、翌年メアリー2世と共同で即位した。1690年にはボイン川の戦いでジェームズ軍を破った。生涯、対フランス同盟の中心であり続けた。

同時代の人物

1歳上の河合曽良は、ウィリアムとメアリーの戴冠(1689年4月)から1か月足らず後に、松尾芭蕉と『おくのほそ道』の旅に出た。3歳下には近松門左衛門とアルカンジェロ・コレッリ、4歳下には清の康熙帝がいる。

ウィリアムが51歳で亡くなったとき、宿敵ルイ14世は63歳で、なお13年余り生きた。ピョートル1世は29歳、ジョナサン・スウィフトは34歳。スウィフトは若いころ、下のエピソードに出てくる外交官テンプルの秘書だった。

年齢で見る生涯

誕生日はグレゴリオ暦(オランダ)、イングランドでの出来事と没日はユリウス暦で書く(DBと同じ)。

  • 0歳(1650年) ハーグで生まれる。父ウィレム2世は8日前に天然痘で亡くなっていた
  • 21歳(1672年) フランスなどに攻め込まれた「災厄の年」に、ホラント州の総督となる
  • 27歳(1677年) 27歳の誕生日に、叔父ヨーク公(のちのジェームズ2世)の娘メアリーと結婚
  • 38歳(1688年) 38歳の誕生日の翌日(ユリウス暦11月5日)、イングランド南西部に上陸する
  • 38歳(1689年) メアリーと共同で即位
  • 41歳(1692年) 王も署名した命令のもと、政府軍がスコットランドのグレンコーでマクドナルド氏族を襲い、38人を殺害(約30人とする研究もある)
  • 44歳(1694年) メアリーが天然痘で死去。32歳だった
  • 51歳(1702年) 馬がモグラの穴につまずいて落馬し、鎖骨を折る。肺炎を起こし、ケンジントン宮殿で死去

イングランド王だったのは13年足らずだが、オランダの総督は30年近く務めた。天然痘は父母と妻を奪ったが、本人は24歳でこの病を生き延びている。

人物のつながり

  • チャールズ1世:母方の祖父。母メアリーはその長女だった。
  • ルイ14世:1672年のオランダ侵略以来の宿敵。
  • ピョートル1世:1697年にユトレヒトで会見。翌年、ピョートルは王の招きでイングランドを訪れた。
  • アイザック・ニュートン:ウィリアムの治世の1696年に造幣局監事となり、銀貨の大改鋳に当たった。

エピソード

王子の食事は英国大使の家から(24歳・1675年)

1675年、ウィレムは天然痘にかかった。英国大使テンプルの回想録によれば、病の間、王子はテンプル家から届くもの以外ほとんど口にしなかった。オランダの友人たちは、万一のことがあれば民衆がテンプル家を打ち壊すだろうと告げたという。看病したのは側近ベンティンクで、医師の勧めで同じ寝床に入ったと伝えられる。王子はテンプルに「彼が眠っていたのかはわからない。だが16日16晩、呼んで返事がなかったことは一度もない」と語った。王子が髪をとかせるまでに回復した日、ベンティンクは帰宅を願い出て、そのまま同じ病に倒れた。

「晩の食後には決して…!」(38歳・1689年)

名誉革命直後の1689年1月、ロンドン。秘書コンスタンティン・ホイヘンス(子)は署名をもらう命令書を抱え、夕食前から1時間待った。食後に出直すと、来客を帰したウィレムが「何かあるか」と聞く。命令書がありますと答えると、少し不機嫌な顔で「今夜は署名しない」と言い、「晩の食後には決して…!」と付け加えた。ホイヘンスは「前からずっと待っていたのです」と返して下がり、何度も食後に呼びつけておいてと日記にこぼした。王の不機嫌や宮廷のうわさまで記したこの日記は、1876年まで刊行されなかった。

ボイン川の前日、砲弾が上着をさらう(39歳・1690年)

1690年6月30日、ボイン川をはさんでジェームズ軍と向き合ったウィリアムは、対岸を見て回るうちに砲撃を受けた。従軍したホイヘンスの日記によれば、砲弾は上着と胴着とシャツをはぎ取り、肌を少し焦がした。王は痛がるそぶりも見せず「これ以上近くなくてよい」とだけ言い、周りの者に「諸君、なぜ進まないのか」とフランス語で声をかけた。公式発表によれば、傷は右肩で、王は手当ての後4時間馬に乗り続けた。翌7月1日、王は川を渡ってジェームズ軍を破った。

出典・参考資料

  • Wikipedia(en)「William III of England」「Grand Embassy of Peter the Great」「Massacre of Glencoe」「William Bentinck, 1st Earl of Portland」「Mary, Princess Royal and Princess of Orange」、Wikipedia「ウィリアム3世 (イングランド王)」、National Library of Scotland「Glencoe massacre」、Westminster Abbey「William III」、Royal Mint Museum「Isaac Newton」、tabi-mag.jp「3月27日」・和樂web(『おくのほそ道』出発日。元禄2年3月27日=1689年5月16日)
  • Sir William Temple『Memoirs of what pass'd in Christendom, from the war begun 1672, to the peace concluded 1679』(1709年版、93〜94頁。archive.org)(天然痘とベンティンク)
  • 『Nieuw Nederlandsch biografisch woordenboek』第1巻(1911年)「Bentinck, Hans Willem」(J. Wackie Eysten執筆。DBNL)(医師の勧めで同じ寝床に入った件)
  • 『Journaal van Constantijn Huygens, den zoon, van 21 October 1688 tot 2 Sept. 1696』第1部(Werken van het Historisch Genootschap, Nieuwe Reeks 23、1876年。archive.org)1689年1月20日の項(食後の署名)、1690年7月10日の項(ボイン川の負傷。日付はグレゴリオ暦)、および同書の序文(刊行が遅れた事情)
  • 『An Account of the Victory obtained by the King in Ireland, On the First day of this Instant July, 1690. Published by Authority』(1690年。EarlyPrint)