生田検校
イクタケンギョウ
Ikuta, Kengyo
1656年 – 1715年7月14日 (約59歳没)
生田検校の人物情報
江戸時代前期から中期の京都の箏曲家。名は幾一(いくいち)。盲人の自治組織「当道」に属し、箏曲と平曲を専門とした。八橋検校の弟子・北島検校城春に箏を学び、元禄9年(1696年)に検校となり、宝永2年(1705年)には当時の最高位「七老」に列した。箏を地歌の三味線と合奏させる道を開いたとされ、その芸は弟子の米山検校、倉橋検校らに受け継がれて、後世「生田流」と呼ばれるようになった。作品に箏組歌「思川」、段物「五段」、三弦曲「小笹」などが伝わる(「思川」「五段」には異説がある)。伝記には不明な点が多い。
同時代の人物
生田と同じ1656年には、イギリスの天文学者エドモンド・ハレーが生まれた。ハレー彗星に名を残した学者と、京都の盲目の箏曲家が同い年である。3歳上には近松門左衛門、ヴァイオリンのコレッリ、「カノン」のパッヘルベルがいる。
同じ京都では、2歳下の尾形光琳が呉服商の家に生まれている。生田が亡くなった翌年に光琳も世を去り、2人はともに元禄の京都を生きた。光琳の代表作に「八橋蒔絵螺鈿硯箱」があるが、こちらの「八橋」は『伊勢物語』の名所で、八橋検校とは関係がない。
生田流を開いたと伝えられる1695年には、イギリスでヘンリー・パーセルが36歳で亡くなった。生田が世を去った1715年、バッハとヘンデルはともに30歳。49日後にはルイ14世が亡くなっている。
年齢で見る生涯
年齢はすべて数え年。「生田流」は本人が名乗った流派名というより、後世の呼び名である。生前の記録に残るのは、勾当から検校、七老へと当道の階段を上っていく姿だった。
人物のつながり
エピソード
「生田流」は、本当は「北島流」?(35歳・1690年)
生田流の始まりについて、江戸時代の伝書『新八橋流伝授書』は意外な事情を伝えている。師の北島検校は八橋検校から受け継いだ組歌の手法を改め、独り立ちする志を持っていた。しかし改めた手法を生田一人に伝えただけで、早くに亡くなってしまう。そのため本来なら「北島流」と呼ぶべきものが、後世「生田流」と呼ばれるようになったというのである。辞典によっては、箏と地歌の合奏や新しい爪も北島の創案とする説を挙げている。生田流は、師弟二代の改革の結晶だったのかもしれない。
「幾田勾当」から最高位の「七老」へ(30〜50歳・1685〜1705年)
生田のような盲人の音楽家は、「当道」と呼ばれる自治組織に属していた。琵琶で『平家物語』を語る琵琶法師から発展した組織で、幕府の保護を受け、京都の職屋敷が全国の盲人に官位を与えた。官位は検校・別当・勾当・座頭の4つで、細かな段階を上がるたびに官金を納める仕組みだった。京都の案内書『京羽二重』をたどると、30歳の生田は「幾田勾当」として載っている。41歳で検校に上がり、50歳の版では当時の最高位「七老」となった。生田の専門は箏曲と平曲で、平曲は当道の本来の芸である。箏の名手は、組織の中でも重きをなす人物になっていた。
箏を三味線と合奏させる(40歳・1695年、伝承)
生田検校の名は、箏を地歌の三味線と合奏させた人として知られる。八橋検校が整えた箏曲は、箏の弾き歌いの組歌と器楽の段物が柱だったが、生田は三味線の地歌に箏を組み合わせ、合奏に合う奏法と調弦を工夫したとされる。40歳のときに生田流を始めたとも伝えられるが、確かな記録はない。生田流は四角い「角爪」を使い、三味線中心で器楽的な表現に特色があった。約100年後、江戸で山田検校が歌を中心にした山田流を起こし、箏曲は二大流派の時代を迎える。
出典・参考資料