ファン・ダイク

ファン・ダイク

ファン・ダイク

Van Dyck, Anthonis

1599年3月22日 – 1641年12月9日 (42歳没)

ベルギー 絵画

ファン・ダイクの人物情報

フランドル(今のベルギー)の画家・版画家。アントウェルペンの裕福な絹商人の家に生まれ、10歳で画家ファン・バーレンに弟子入りし、18歳で画家組合の親方となった。ルーベンスの工房で助手として働き、6年ほどのイタリア滞在でティツィアーノに学んだ。1632年からはイングランド王チャールズ1世の首席宮廷画家となり、騎士に叙された。王侯貴族を優雅に描いた肖像画は、のちのイギリス肖像画の手本となった。1641年、42歳でロンドンで亡くなった。

同時代の人物

1599年3月生まれのファン・ダイクと同世代には、バロック美術の大家が並ぶ。彫刻家のジャン・ロレンツォ・ベルニーニは3か月ほど年上、スペインの宮廷画家ディエゴ・ヴェラスケスは2か月半ほど年下である。日本では狩野派の狩野探幽が3歳下で。東西で将軍と国王に仕えた絵師が、ほぼ同じころに生まれている。

ファン・ダイクが亡くなった1641年12月、7歳下のレンブラント・ファン・レインは35歳だった。1か月後の1642年1月にはガリレオ・ガリレイが77歳で世を去っている。

年齢で見る生涯

日付はアントウェルペン時代はグレゴリオ暦、イングランドでの出来事は当時のイングランドのユリウス暦による。

  • 10歳(1609年) アントウェルペンの画家ヘンドリック・ファン・バーレンに弟子入り
  • 18歳(1618年2月) 聖ルカ組合(画家組合)の親方となる。このころルーベンスの工房で助手として働く
  • 21歳(1620年11月) 初めてイングランドへ渡り、ジェームズ1世に仕える(翌年2月まで)
  • 22歳(1621年10月) イタリアへ旅立つ。ジェノヴァを拠点に、ローマやパレルモなどを回った
  • 28歳(1627年) アントウェルペンに戻り、のちにネーデルラント総督イサベルの宮廷画家となる
  • 33歳(1632年7月5日) ロンドンでチャールズ1世から騎士に叙され、「両陛下の首席宮廷画家」となる
  • 42歳(1641年12月9日) ロンドンのブラックフライアーズの自宅で死去。8日前に生まれた娘ユスティニアナは、父の死んだその日に洗礼を受けた。11日、セント・ポール大聖堂に葬られた

師ルーベンスは1640年5月に62歳で亡くなっており、ファン・ダイクは師より1年半ほど長く生きただけだった。その墓も、1666年のロンドン大火で大聖堂とともに失われた。

人物のつながり

  • ピーテル・パウル・ルーベンス:師であり雇い主。1618年、英国大使カールトンに作品を売り込む書簡で、ファン・ダイクの描いた絵を「私の最良の弟子の作」と紹介している。
  • チャールズ1世:最大の注文主。王はたびたび御座船でホワイトホール宮殿からテムズ川を下り、ブラックフライアーズのアトリエで制作を何時間も眺めたと伝えられる。
  • ティツィアーノ・ヴェチェッリオ:イタリアで最も熱心に学んだ画家。スケッチブックにはティツィアーノの作品の模写が数多く残る。

エピソード

村が守り抜いた祭壇画(22歳・1621年)

ブリュッセル近郊ザーヴェンテムの教会に、若きファン・ダイクの「マントを分け与える聖マルティヌス」が今も掛かっている。古い本には、イタリアへ向かう途中、村の美しい娘(名はアンナ・ファン・オーフェムとも)に心を奪われて足止めされ、この絵を描いたという話がある。しかし研究者はこれを伝説とみる。1621年に男爵となった領主ボイスホットの寄進とする説が有力である。村人はこの絵を誇りにした。1739年に司祭たちが村役場に無断でハーグの人物に売ったときは引き渡しを阻み、買い手は手ぶらで帰った。1794年には進駐したフランス軍に持ち去られたが、1816年に村へ戻った。

96歳と名乗った画家からの助言(25歳・1624年)

1624年7月12日、ファン・ダイクはパレルモで、かつてスペイン宮廷で活躍した女性画家ソフォニスバ・アングイッソラを訪ね、肖像を素描した。スケッチブックの書き込みによれば、彼女は96歳で目がほとんど見えなかった。それでも記憶も頭もしっかりしていて、絵を鼻がつくほど近づけて眺めては楽しんだ。描いている若い画家に「光を高くしすぎないように。老いた皺の影が大きくなりすぎるから」と助言したという。いちばん辛いのは目のせいで絵が描けないことだとも語ったが、手は少しも震えていなかった。実際の年齢は90歳前後とみられ、翌年に亡くなった。

国王が値切った請求書(39歳・1638年)

1638年の終わりごろ、ファン・ダイクはチャールズ1世に、それまでに描いた絵の請求書をフランス語で書いて出した。原本はイギリスの国立公文書館の前身に伝わり、そこには王自身の手で値段が書き直されている。半身像は30ポンドが25ポンドに、全身像は50ポンドが40ポンドに。のちにルーヴル美術館の名作となる「狩猟中の王」(Le Roi à la chasse)にあたるとみられる絵は、200ポンドの請求に対して王の認めた額は100ポンドだった。王妃の分は「王妃が自分で値をつける」とされた。年200ポンドの年金も5年分、計1,000ポンドが未払いのままだった。

出典・参考資料

  • Wikipedia(nl)「Antoon van Dyck」、Wikipedia「アンソニー・ヴァン・ダイク」、National Gallery(London)「Anthony van Dyck」、British Museum コレクション(イタリア・スケッチブック 1957,1214.207 のティツィアーノ模写)、Metropolitan Museum「Self-Portrait, from "The Iconography"」、University of Leicester(旧セント・ポール大聖堂の焼失と墓)、W. H. Carpenter『Pictorial Notices, consisting of a Memoir of Sir Anthony Van Dyck』1844年(騎士叙任、ブラックフライアーズ、王の訪問、死去・埋葬・娘の洗礼)
  • D.V.S.(Desiderius van Spilbeeck)「De H. Martinus, tafereel door Antoon Van Dyck」『De Vlaamsche School』第33年(1887年、DBNL)(1672年・1739年・1794年・1816年)
  • 「Antoon van Dijck – Sint Maarten」『Openbaar Kunstbezit in Vlaanderen』1964年(伝説の否定、ボイスホットの寄進説)
  • Wikipedia(en)「Saint Martin Dividing his Cloak (van Dyck)」、erfgoed.app「Flirten in de Sint-Martinuskerk」
  • ファン・ダイク『イタリア・スケッチブック』(大英博物館所蔵)の書き込み。The Art Newspaper「Extract: the day Anthony van Dyck received wise advice…」(2021年、英訳)、Pietro Scarnera「Quando Antoon incontrò Sofonisba」(伊訳)による
  • Carpenter『Pictorial Notices』(1844年)Appendix IV「Account delivered in to the King by Van Dyck」(66〜68頁)