グイド・レーニ

グイド・レーニ

レーニ

Reni, Guido

1575年11月4日 – 1642年8月18日 (66歳没)

イタリア 絵画

グイド・レーニの人物情報

17世紀のボローニャ派を代表する画家。1575年11月4日、ボローニャの町に雇われた音楽家ダニエーレ・レーニの子に生まれた(イタリアがグレゴリオ暦に移る1582年10月より前なので、ユリウス暦の日付である)。フランドル出身のカルヴァールトの工房を経て、カラッチ一族のアカデミーで学んだ。1601年頃からローマで活動し、教皇パウルス5世のパオリーナ礼拝堂や、教皇の甥ボルゲーゼ枢機卿の別荘の天井画「アウローラ」を手がけた。のちボローニャに戻り、気品ある聖母や聖人の姿で、生前から「神のごときグイド」と称えられた。一方で、賭け事に溺れたことでも知られる。1642年8月18日、ボローニャで没した。

同時代の人物

レーニが生まれた1575年には、朝鮮の国王光海君も生まれている。2年後の1577年には、フランドルのルーベンス(ピーテル・パウル・ルーベンスとも)が生まれた。日本では、絵師の岩佐又兵衛が3歳ほど年下にあたる。

ローマで張り合ったカラヴァッジョ(カラヴァッジオとも)は4歳上だが、1610年に38歳で亡くなった。レーニが66歳で世を去った1642年には、1月にガリレオ・ガリレイも77歳で亡くなっている。

年齢で見る生涯

  • 8〜9歳(1584年) カルヴァールトの工房に入る。10年の約束だった
  • 18〜19歳(1594年) 父を亡くした後、カラッチ一族のアカデミーに移る
  • 25〜26歳(1601年) ローマにいたことが記録で確かめられる
  • 29〜30歳(1605年) カラヴァッジョ風の暗い画面で「聖ペテロの磔刑」を仕上げる
  • 35〜36歳(1611年) ボローニャのサン・ドメニコ聖堂のために「幼児虐殺」を描く
  • 38歳(1614年8月) 「アウローラ」の最後の支払いを受ける
  • 45歳(1621年) ナポリでサン・ジェンナーロ礼拝堂の装飾を契約するが、のちに破棄する
  • 66歳(1642年8月18日) ボローニャで死去。サン・ドメニコ聖堂のロザリオ礼拝堂に葬られた

ローマで名を上げたのは30代である。ただし、40代以降はボローニャを拠点にし、ローマやナポリの大仕事を途中で投げ出すこともあった。

人物のつながり

  • アンニーバレ・カラッチ:ボローニャのアカデミーの先輩で、ローマで仰ぎ見た大家。マルヴァジアによれば、アンニーバレはレーニのローマ入りを喜ばず、連れてきた弟子アルバーニに不満をこぼしたという。
  • ドメニキーノ:カラッチ門下の後輩でライバル。1608年頃、ローマのサン・グレゴリオ・アル・チェリオ聖堂の同じ礼拝堂に、2人は1面ずつ壁画を描いて競った。ベッローリの伝記によれば、アンニーバレはドメニキーノに軍配を上げた。レーニが投げ出したナポリの礼拝堂の装飾も、のちにドメニキーノが引き受けた。
  • フランチェスコ・アルバーニ:若いころからの仲間。1600年頃、2人でローマへ向かった。

エピソード

「決闘ではなく、絵を描きに来た」(25〜29歳・1601〜05年頃)

マルヴァジアの伝記によれば、ローマに出たレーニを、カラヴァッジョの敵だった画家カヴァリエール・ダルピーノが後押しした。カラヴァッジョが取るはずの仕事まで回したという。カラヴァッジョは、レーニの画風を「なめたような、空想ばかりの絵」とけなした。絵筆ではないもので片をつけるとまで言っていたという。出くわすと、「張り合う気なら相手になってやる」と迫った。レーニの返事はこうだったと伝えられる。「あなたの召使いです。私は決闘ではなく、絵を描くために来ました。誰とも競いません」。

勝ちすぎた3週間(60歳前後・1630年代半ば)

レーニは負けてばかりの賭博好きだった。マルヴァジアによれば、あるとき3週間続けて毎晩勝ち、4,000ドッピア(金貨)を手にした。友人たちは「これで満足して、金を投資しろ」と勧めたが、レーニは辛辣に言い返して取り合わない。そして3晩で全部を失い、銀行の蓄えまでなくした。それでも顔色ひとつ変えず、数日で祭壇画を仕上げて1,200ドッピアを稼いだ。そして「おかげで自由になった。あの忌まわしい大勝ち以来、使用人を疑い、夜も眠れなかった」と言ったという。

親友を「魔法使い」と呼んだ画家(晩年・1630年代頃)

マルヴァジアによれば、レーニは毒と魔術をいつも恐れていた。家に女性を置かず、とくに老女を避けた。洗濯物に女物の肌着が一枚紛れ込んだときは、全部を真水に浸し直させた。それからは、男の使用人に家で洗濯をさせたという。若いマルヴァジアに、「人の手に呪いをかけて、絵を描けなくすることはできるか」と真顔で尋ねたこともある。ローマ時代の親友アルバーニまで疑い、仲間うちでは「魔法使い」と呼んでいたと伝えられる。

出典・参考資料

  • Treccani『Dizionario Biografico degli Italiani』「RENI, Guido」(Giovanna Perini Folesani執筆、第86巻、2016年。生年月日と父母、カルヴァールトとカラッチのアカデミー、1594年の父の死、1600年頃にアルバーニとローマへ、1610年のパオリーナ礼拝堂、1612年のローマ帰還と「アウローラ」、サン・グレゴリオ・アル・チェリオでのドメニキーノとの競作とアンニーバレの判定、1619年と2年後のナポリの契約とその破棄、賭博と借金、没日)、Wikipedia(it)「Guido Reni」(1584年のカルヴァールトとの10年契約、1601年のローマでの記録、1605年の「聖ペテロの磔刑」、1608年のサン・グレゴリオ、1611年の「幼児虐殺」、1614年8月8日の「アウローラ」最後の支払い、1621年4月のナポリ、ロザリオ礼拝堂への埋葬)、大英博物館コレクション「Domenichino」(1631年にナポリの宝物礼拝堂の装飾を引き受けたこと)、Galleria Borghese「Guido Reni a Roma. Il sacro e la natura」(2022年3月1日〜5月22日、ローマ時代とカラヴァッジョへの反応を扱った展覧会。Finestre sull'Arte の紹介記事で確認)、Städel Museum「Guido Reni. Der Göttliche」(2022〜23年、プレス資料。「神のごとき」の呼び名)、カラヴァッジョの生年(1571年9月29日、ミラノの洗礼記録。伊語の紹介記事)、人名辞典DB(光海君、ルーベンス、岩佐又兵衛、ガリレオ、アンニーバレ・カラッチ、ドメニキーノの生没年)
  • Carlo Cesare Malvasia『Felsina pittrice. Vite de' pittori bolognesi』第2巻(1678年、ボローニャ)「Guido Reni」(archive.org の felsinapittricev02malv_0 のテキスト)(カラヴァッジョとの一件、アンニーバレの不満、大勝ちと大負け、毒と魔術への恐れ、アルバーニを「stregone」と呼んだこと、死去の日時)
  • Treccani DBI「RENI, Guido」(賭博が身を滅ぼしたとする伝記作者の評、借金返済のために下絵を売ろうとしたこと)