ムハンマド・アリー・ジンナー

ジンナー

Jinnah, Muhammad Ali

1876年12月25日 – 1948年9月11日 (71歳没)

パキスタン 政治家

ムハンマド・アリー・ジンナーの人物情報

パキスタンの政治家で、初代総督。カラチの商家に生まれ、16歳でロンドンのリンカーン法曹院に入り、19歳で弁護士となった。ボンベイで名を上げ、はじめは国民会議派とムスリム連盟の両方に属してヒンドゥーとムスリムの協調を説いた。やがて会議派と決別し、1940年のラホール決議でムスリムの独立国家を求める。1947年8月にパキスタンが独立すると総督に就いたが、翌年9月に結核のため71歳で亡くなった。パキスタンでは「カーイデ・アーザム(偉大な指導者)」と呼ばれる。

同時代の人物

ジンナーが生まれた1876年には、日本で野口英世が生まれている。野口は11月、ジンナーは12月の生まれで、ひと月半しか違わない。同じ年の1月には、戦後西ドイツの初代首相となるアデナウアーが生まれた。

インド独立をめぐる顔ぶれでは、ガンディーが7歳上、チャーチルが2歳上、ネルーが13歳下である。トルコ共和国を建てたケマル・アタチュルクは5歳ほど若い。

年齢で見る生涯

  • 16歳(1893年6月) ロンドンのリンカーン法曹院に入る
  • 19歳(1896年4月) 弁護士資格を得る。同じ月、法曹院の名簿の名前を「ムハンマド・アリー・ジンナーバーイー」から「ムハンマド・アリー・ジンナー」に改めた
  • 23歳(1900年) ボンベイの治安判事を臨時に務める。月給1500ルピーで正式採用を打診されたが、「1日に1500ルピー稼ぐつもりだ」と断ったと伝えられる
  • 40歳(1916年12月) 会議派とムスリム連盟の「ラクナウ協定」をまとめ、サロージニー・ナーイドゥから「ヒンドゥー・ムスリム協調の大使」と呼ばれる
  • 41歳(1918年4月) パールシーの富豪の娘ルッティーと結婚。新婦は18歳になったばかりだった
  • 52歳(1929年2月) 別居していたルッティーが29歳の誕生日に亡くなる。葬儀で土をかけるとき、ジンナーは人前で泣き崩れた
  • 63歳(1940年3月) ラホール決議。ムスリムの独立国家を正式に求める
  • 70歳(1947年8月) パキスタン独立、初代総督に就任。分離独立にともなう暴動で、死者は20万〜200万人と推計され、約1500万人が故郷を追われた
  • 71歳(1948年9月) カラチで死去

パキスタンの総督を務めたのは、わずか1年1か月だった。40代の「協調の大使」は、60代で「分離の指導者」になっていた。

人物のつながり

  • ガンディー:7歳年上。ともにグジャラート語を母語とする、ロンドン帰りの弁護士だった。1944年9月にボンベイで直接会談したが、物別れに終わった。
  • ネルー:13歳年下。会議派の指導者として最後まで対立し、1947年にインドとパキスタンは分かれて独立した。
  • イクバール:3歳年上の詩人・思想家。1936〜37年、ジンナーにムスリム国家の構想を説く手紙を送り続けた。イクバールの没後、ジンナーは書簡集に序文を寄せ、彼を「イスラームの国民詩人」とたたえた。
  • マウントバッテン:最後のインド総督として分離独立を実行した。ジンナーの病は知らなかった(エピソード参照)。

エピソード

預言者の名を見て決めた法曹院(16歳・1893年)

商社の見習いとしてロンドンに渡ったジンナーは、数か月で法律家を志し、入る法曹院を探して回った。妹ファーティマの回想録によれば、ジンナーは「調べた結果、リンカーン以外の法曹院に決めかけていた」と語ったという。ところがリンカーン法曹院で、世界の偉大な立法者の中に預言者ムハンマドの名を見て、そこに入ると誓ったのだという。法曹院の大ホールには、モーセやムハンマドら立法者を描いたワッツの大壁画がある。

夢はロミオ役(16〜19歳・1893〜96年)

ロンドンでの学生時代、ジンナーが最も夢中になったのはシェイクスピアだった。妹ファーティマによれば、劇場オールド・ヴィックで名優の舞台を観て役者を本気で志し、そこでロミオを演じるのが夢だった。ただ、来た誘いは小さな劇団の端役だけで、彼は俳優の道を選ばなかった。父から反対の手紙が届いたという話も伝わる。政治家になってからも夜はベッドでシェイクスピアを読み、妹に好きな場面を朗読して聞かせた。その声は訓練を積んだ役者のようだったという。

誰にも見せなかったレントゲン写真(69歳・1946年)

1946年、ボンベイの医師ジャル・パテールはジンナーの胸部レントゲン写真に重い結核を見つけた。仕事を減らして休まなければ、余命は1〜2年だと告げたとされる。ジンナーは病を隠して交渉の席に着き続けた。最後のインド総督マウントバッテンは、のちに作家コリンズとラピエールの取材に「知っていたら、インドを分けずにおこうと時計を戻しただろうか。おそらくそうしただろう」と語っている。2026年8月、パキスタン政府は秘密を守った2人の医師に、文民勲章ニシャーネ・イムティヤーズを死後に贈ると発表した。

出典・参考資料

  • Wikipedia(en)「Muhammad Ali Jinnah」「Rattanbai Jinnah」「Muhammad Ali Jinnah's 11 August Speech」、Encyclopaedia Britannica「Partition of India」(死者数・避難民数)、Syed Sharifuddin Pirzada「Quaid-i-Azam Mohammad Ali Jinnah as a Lawyer」(National Institute of Historical and Cultural Research)
  • Fatima Jinnah『My Brother』(Quaid-i-Azam Academy 刊、1987年。第4章「A Businessman Becomes a Barrister」、巻末資料のリンカーン法曹院の証書・通知類)
  • Lincoln's Inn「Paintings」「G F Watts and the Inn」(壁画)
  • UPI「The late Lord Louis Mountbatten said he would not...」1982年4月21日(L. Collins & D. Lapierre『Mountbatten and the Partition of India』刊行時の記事)
  • Scroll.in「Pakistan honours two Mumbai doctors who kept Jinnah's terminal illness secret before Partition」、Dawn「The 'secret' behind Pakistan's creation」
  • Express(ウルドゥー語)خواجہ رضی حیدر「قائد اعظم بحیثیت قانون داں」2024年12月25日(法曹院入学日、1日1500ルピーの逸話)
  • Dunya News(ウルドゥー語)「نبی کریم صلی اللہ علیہ وآلہ وسلم سے قائدِ اعظمؒ کی والہانہ عقیدت」(法曹院の話のウルドゥー語での伝わり方)
  • Iqbal Academy「Foreword, Letters of Iqbal to Jinnah」