モーリス・ド・ブラマンク

モーリス・ド・ブラマンク

ブラマンク

Vlaminck, Maurice de

1876年4月4日 – 1958年10月11日 (82歳没)

フランス 絵画

モーリス・ド・ブラマンクの人物情報

フランスの画家・文筆家。日本では「ヴラマンク」の表記が一般的である。パリで音楽家の家に生まれ、西郊のル・ヴェジネやシャトゥーで育った。自転車競技の選手やヴァイオリン教師で暮らしを立てたのち、1900年にアンドレ・ドランと知り合い、シャトゥーでアトリエを分け合って本格的に絵を描き始める。1905年のサロン・ドートンヌでは、マチスやドランとともに強烈な原色の絵で「フォーヴ(野獣)」と呼ばれた。のちにセザンヌに学んで暗い色調の風景画に移り、1925年からはウール=エ=ロワール県リュエイユ=ラ=ガドリエールに住んで、同地で没した。小説や回想録も多く書いている。

同時代の人物

ヴラマンクが生まれた1876年には、彫刻家のブランクーシが約6週間早く生まれている。日本では野口英世が同い年である。野口が西アフリカのアクラで亡くなった1928年には、ヴラマンクに強い影響を受けた佐伯祐三もパリで30歳の若さで世を去った。ヴラマンクはこのとき52歳で、翌1929年に最初の回想録を出している。

フォーヴの仲間では、マチス(DB名「アンリ・マチス」)が6歳上、ドランが4歳下である。82歳まで生きたヴラマンクは、マチスとドランがともに1954年に亡くなったあとも4年を生きた。

年齢で見る生涯

  • 17〜21歳(1893〜97年) 自転車競技の選手として稼ぐが、腸チフスにかかって断念。その後はヴァイオリン教師をし、夜は楽団で弾いた
  • 24歳(1900年) ドランと知り合い、シャトゥーの橋のたもとの元レストランを共同のアトリエにする
  • 24〜25歳(1901年) ベルネーム=ジュヌ画廊のゴッホ展で純色の力に目を開かれる
  • 29歳(1905年) サロン・ドートンヌに出品し、「フォーヴ」の一人と呼ばれる
  • 30歳(1906年) 画商ヴォラールがアトリエの作品をまとめて買い取る
  • 48〜49歳(1925年) リュエイユ=ラ=ガドリエールの農家に移り、終生そこで暮らす
  • 65〜66歳(1941〜42年) ナチス・ドイツの宣伝旅行に参加し、翌年ピカソを攻撃する文章を発表(エピソード参照)
  • 82歳(1958年10月) リュエイユ=ラ=ガドリエールで死去

絵だけで食べられるようになったのは30歳のときで、それまでは自転車、ヴァイオリン、小説と、何でも稼ぎの手段にしていた。

人物のつながり

  • アンドレ・ドラン:生涯の友。1900年から翌年までシャトゥーでアトリエを分け合った。ヴラマンクの初期の小説に挿絵を描いた。
  • アンリ・マチス:1901年のゴッホ展で知り合い、1905年にはともに「フォーヴ」と呼ばれた。
  • パブロ・ピカソ:占領下の1942年、ヴラマンクが新聞で激しく攻撃した相手(エピソード参照)。
  • 佐伯祐三:1924年初夏、パリ郊外オーヴェル=シュル=オワーズのヴラマンクを訪ね、持参した裸婦を「アカデミック」と退けられて衝撃を受けたとされる。日本ではよく知られた話である。

エピソード

脱線した列車が引き合わせた2人(24歳・1900年)

2人の出会いは、パリからシャトゥーへ帰る郊外列車の脱線事故だったと伝えられる。兵役の休暇中だったヴラマンクは、歩いて帰る途中、同じ列車に乗っていた近所に住むドランと話し込み、2人とも絵を描くことを知ったという。フランス語版Wikipediaは日付を1900年6月18日としており、それならドランは前日に20歳になったばかりである。ただしポンピドゥー・センターの解説は「定着した伝説によれば」と断っている。2人はほどなくシャトゥーの元レストランを共同のアトリエにした。

艶っぽい小説で食いつなぐ(26〜27歳・1902〜03年)

売れない画家だったヴラマンクは、文章でも稼ごうとした。1902年と1903年に、かなりきわどい内容の小説を1冊ずつ出し、どちらにもドランが挿絵を付けている。ポンピドゥー・センターの解説は、無政府主義に共鳴していた若いヴラマンクが「パンフレットや猥雑な小説」を書いていたと記す。そのひとつ、友人フェルナン・セルナダとの共著『ベッドからベッドへ』は、半世紀後の1956年にドランの挿絵18点入りで再刊された。文筆はその後も続き、生涯に小説・詩・評論を20冊ほど、回想録を十数冊残している。

ドイツへの宣伝旅行と、ピカソへの攻撃(65〜66歳・1941〜42年)

1941年秋、ヴラマンクはドランや彫刻家デスピオらとともに、占領者ドイツが招いた「研修旅行」に参加した。敗戦国の著名な芸術家に宣伝役を担わせる、ゲッベルス発案の企画とされ、参加者には捕虜の解放につながるという期待もあったとされる。翌1942年6月、ヴラマンクは文化紙『コメディア』で、ピカソが「フランス絵画を最も致命的な袋小路に引き込んだ」と書き立てた。フォーヴとして前衛に加わった自分の過去も否定する文章で、相手はゲシュタポに脅かされ、発表の場も奪われていた画家だった。解放後、ヴラマンクは一定期間の発表を禁じられた。

出典・参考資料

  • Wikipédia(fr)「Maurice de Vlaminck」(生没年月日・生没地、シャトゥーでの少年時代、1900年6月18日の出会い、1905年のサロン・ドートンヌ、1925年のリュエイユ=ラ=ガドリエール移住、『Tournant dangereux』1929年・『Portraits avant décès』1943年、1941年11月の旅行、粛清委員会の処分)、Wikipédia(fr)「André Derain」(生没年月日、兵役1901〜04年)、Larousse「Maurice de Vlaminck」(自転車選手1893〜96年、ヴァイオリン教師と楽団1896〜97年、ゴッホ展、1906年のヴォラール、文筆)、Museo Nacional Thyssen-Bornemisza「Vlaminck, Maurice de」(自転車と腸チフス、兵役中の休暇での出会い、1902・03年の小説、回想録)、Wikipedia(ja)「モーリス・ド・ヴラマンク」「佐伯祐三」、人名辞典DB(同時代の人物の生没年月日)
  • Centre Pompidou「Maurice de Vlaminck, Une rue de Marly-le-Roi」作品解説(伝記部分。https://www.centrepompidou.fr/fr/ressources/oeuvre/c494dp)
  • Livre Rare Book「VLAMINCK Maurice de & SERNADA Fernand. [DERAIN André]. D'un lit dans l'autre」(1956年、Éditions du Cap版の書誌)https://www.livre-rare-book.com/book/5472789/3174
  • Encyclopædia Universalis「Art sous l'Occupation – 2. La propagande nazie」https://www.universalis.fr/encyclopedie/art-sous-l-occupation/2-la-propagande-nazie/
  • Musée d'Art moderne de Paris「Dossier pédagogique L'Art en guerre, France 1938-1947」(Comœdia 1942年6月の引用。原典はAntonina Vallentin『Picasso』1957年、355頁、Picasso『Propos sur l'art』Gallimard、1998年、171頁)https://www.mam.paris.fr/sites/default/files/documents/dpaeg_.pdf