アンワル・サーダート
サーダート(別名:サダト)
Sadat, Anwar
1918年12月25日 – 1981年10月6日 (62歳没)
アンワル・サーダートの人物情報
エジプトの軍人、政治家で、第3代大統領。ナイル・デルタの農村に生まれ、陸軍士官学校を出た。第二次世界大戦中は反英活動で投獄と逃亡を繰り返す。1952年、ナーセルらの自由将校団の革命に加わり、1970年にナーセルの急死を受けて大統領となった。1973年10月にイスラエルとの第四次中東戦争を始める。その後は対米接近に転じ、1977年のエルサレム訪問、1978年のキャンプ・デービッド合意を経て、1979年にイスラエルと平和条約を結んだ。1978年にノーベル平和賞を受けたが、単独和平はアラブ諸国の反発を招いた。1981年9月に反対派を一斉に拘束し、翌月、軍事パレードの観閲中に暗殺された。
同時代の人物
同じ1918年には、1月にナーセル、8月に指揮者のバーンスタインが生まれている。5歳上の1913年生まれには、米大統領のニクソンとフォードがいる。2人はサーダートの葬儀に、カーター元大統領とともに参列した。
日本では、作家の島尾敏雄が1歳上にあたる。大戦末期、島尾が加計呂麻島で特攻隊長を務めていたころ、サーダートは偽名で日雇い仕事をしながら逃亡生活を送っていた。同じく1歳上の朴正煕は、1979年10月に側近に撃たれて死んだ。軍人出身の2人の大統領は、2年違いで同じように命を落としている。
年齢で見る生涯
20代の半ばから後半を、サーダートは監獄と潜伏のなかで過ごした。大統領を務めたのは51歳から62歳までの11年間で、そのなかで戦争と和平の両方を指揮している。
人物のつながり
エピソード
監獄がウサギで埋まる(24〜25歳・1943〜44年頃)
1943年の暮れ、サーダートはカイロ近郊のザイトゥーン収容所に移された。自伝『البحث عن الذات(自分を探して)』によれば、退屈した収容者たちがウサギを2、3つがい買って飼ったところ、3か月で一つしかない広間がウサギで埋まり、足の踏み場もなくなった。困った一同を救ったのは、バルト地方から来た「伯爵」である。いつも貴族ぶって皆の笑いの種だったこの人が、ウサギ料理の名人だった。しばらくはウサギを食べて暮らしたが、やがて病気が広がり、ウサギは増えたときと同じ速さで減っていったという。
逃亡者が運んだ、ファルーク王の大理石(25〜26歳・1944〜45年)
1944年10月、サーダートはハンガーストライキで送られた病院から脱走した。自伝によれば、ひげを伸ばして「ハーッジ・ムハンマド」と名乗り、トラックの荷運びや、ナイル川の船から舗装用の石を運ぶ仕事で食いつないだ。仕事帰りに飲む熱いレンズ豆のスープは「生涯でいちばんうまい食べ物」だったという。やがてアラバスターの採石場で大理石の運搬を請け負う。ピラミッドのそばに国王ファルークが建てた休憩所の大理石は、すべて自分が切り出して運んだと書いている。その国王を退位させたのが、7年後の革命である。
革命の夜は妻と映画館に(33歳・1952年7月)
1952年7月22日、決起に備えてシナイ半島から呼ばれたサーダートがカイロ駅に着くと、ナーセルの出迎えはなかった。まだ時間はあると考え、夜は妻ジーハーンと近所の映画館に出かけた。その間にナーセルは2度訪ねてきて、「計画は今夜だ」と書いたカードを残していた。真夜中に軍服で陸軍司令部へ急いだが、合言葉を知らずに門で止められ、アーメルの声を聞きつけてようやく中に入れたという。革命の夜に映画館にいたことは長く取り沙汰され、本人は1976年のテレビのインタビューでもその夜の事情を説明している。
出典・参考資料