ガマール・アブドゥル・ナーセル
ナーセル
Nasser, Gamal Abdel
1918年1月15日 – 1970年9月28日 (52歳没)
ガマール・アブドゥル・ナーセルの人物情報
エジプトの軍人、政治家で、第2代大統領。アレクサンドリアで郵便局員の家に生まれ、陸軍士官学校を出て第一次中東戦争に従軍した。1952年、青年将校の秘密組織「自由将校団」を率いてクーデターを起こし、王制を倒す。1956年に大統領となり、同じ年にスエズ運河を国有化した。英仏とイスラエルの出兵が米ソの圧力で撤退に終わると、アラブ民族主義の旗手となる。非同盟外交や農地改革を進めた一方、ムスリム同胞団や共産主義者を弾圧し、新聞を国の管理下に置いた。1967年の第三次中東戦争で大敗し、1970年に在任のまま急死した。
同時代の人物
同じ1918年には、12月にサーダート、8月に指揮者のバーンスタインが生まれている。1歳上の1917年生まれには、ケネディと韓国の朴正煕がいる。朴正煕は1961年、43歳のときに軍事クーデターで実権を握った。軍人が政権を奪い、開発と強権で国を動かした点で、ナーセルとよく似た道をたどった。
エジプトでは、ノーベル文学賞作家のナギーブ・マフフーズが6歳上である。日本では漫画家の長谷川町子が2歳下にあたる。ナーセルが亡くなった2か月後の1970年11月には、三島由紀夫が45歳で自決している。
年齢で見る生涯
34歳から52歳で亡くなるまでの18年間、ナーセルはエジプトの舵を握り続けた。40代は、スエズでの勝利から1967年の大敗までの、栄光と転落の10年にあたる。
人物のつながり
エピソード
同じ映画を2日で3回(35歳・1953年)
1953年3月4日、ナーセル中佐は週刊誌『アーヒル・サーア』に「わが人生に影響した物語」という一文を寄せた。取り上げたのは、フランク・キャプラ監督のアメリカ映画『素晴らしき哉、人生!』である。数年前にカイロで見たときは、見終えるなり切符を買い直してもう一度見た。翌日には盟友アーメルを連れて3度目を見たという。「一人の人間が一国の歴史を変えられる」という自分の信念を描いた映画だと書き、国民を一人残らず映画館に連れていきたかったとまで述べている。ところが客が入らず、上映は1週間もたたずに打ち切られ、誰よりもみじめな気持ちになったという。
8発の銃声のあとも演説を続ける(36歳・1954年)
1954年10月26日、アレクサンドリアのマンシーヤ広場で、英軍撤退の合意を祝う演説の最中に、至近距離から8発の銃弾が撃ち込まれた。弾を免れたナーセルは「皆、その場を動くな」と繰り返し、「ナーセルが死ぬなら、君たち一人一人がナーセルになるのだ」と演説を続けた。犯人はムスリム同胞団員とされ、同胞団は徹底的に弾圧された。12月7日には指導者ら6人が絞首刑となり、拘束者は翌年までに3,000人近くに達した。事件を政権の自作自演とみる説もあり、真相をめぐる議論は今も続いている。
「あれが私なら、殺されて当然だ」(51歳前後・1969年)
1969年2月公開の映画『シェイ・ミン・エル・ホーフ(恐れのようなもの)』は、村を恐怖で支配する暴君アトリースに、娘フアーダが立ち向かう物語である。検閲当局は、暴君がナーセルを当てこすっていると疑って公開を止めた。ナーセルは自ら試写を見て公開を許したと伝えられる。言葉は伝える人によって異なるが、作家ユースフ・カイードによれば「私があれほど醜い人間なら、人々には私を殺す権利がある」と言ったという。ただし、映画館での上映は10日ほどで打ち切られたとされる。新聞も映画も国が握る時代に、公開の可否を最後に決めたのが大統領一人だったことも物語る逸話である。
出典・参考資料