ベンジャミン・ブリテン
ブリテン
Britten, Benjamin
1913年11月22日 – 1976年12月4日 (63歳没)
ベンジャミン・ブリテンの人物情報
イギリスの作曲家・指揮者・ピアニスト。サフォーク州ローストフトに歯科医の子として生まれ、フランク・ブリッジに作曲を学んだあと、ロンドンの王立音楽大学に進んだ。1930年代には郵政省(GPO)の映画班で、詩人オーデンと記録映画を作った。平和主義者で、1939年にテノール歌手ピーター・ピアーズとアメリカへ渡り、1942年に帰国すると良心的兵役拒否者として認められた。1945年のオペラ『ピーター・グライムズ』で国際的な名声を得て、1948年にはピアーズらとオールドバラ音楽祭を創設した。代表作はほかに『青少年のための管弦楽入門』『戦争レクイエム』など。1976年、作曲家として初めて一代貴族に叙され、同じ年に63歳で亡くなった。
同時代の人物
ブリテンが生まれる1か月前の1913年10月22日に写真家のロバート・キャパが、15日前の11月7日に作家のアルベール・カミュが生まれている。戦場を撮り続けた写真家と、兵役を拒んだ作曲家がひと月違いで生まれた。
日本では、建築家の丹下健三が同じ1913年の9月に生まれた。丹下が東京オリンピックの代々木の競技場を完成させた1964年、ブリテンは能「隅田川」をもとにした『カーリュー・リヴァー』を初演している。
年齢で見る生涯
生後3か月の肺炎で心臓を傷め、普通の生活は難しいと言われた子どもだった。59歳で心臓弁の手術を受けてピアノは弾けなくなったが、作曲は最後まで続けた。
人物のつながり
エピソード
「奉祝曲」として届いたレクイエム(26歳・1940年)
1940年の皇紀二千六百年を祝うため、日本政府はR・シュトラウスら各国の作曲家に祝典曲を委嘱した。アメリカにいたブリテンは、楽章名を死者のためのミサから取った「シンフォニア・ダ・レクイエム」を提出する。秋、ボストンの日本領事館で読み聞かされた書簡は、作曲者は「われわれの希望を大いに誤解した」、旋律もリズムも憂鬱で式典にふさわしくない、というものだった。ブリテンはオーデンの手を借りて、キリスト教徒がキリスト教的な作品を書いたのは当然だと返信した。委嘱料の返還は求められなかった。16年後の1956年2月、来日したブリテンは、NHKのテレビ放送のためにNHK交響楽団を指揮してこの曲を演奏している。
ベルゼンで聴いていたチェロ奏者(31歳・1945年)
1945年7月、ブリテンはヴァイオリンのメニューインの伴奏を買って出て、解放された強制収容所を回った。27日のベルゲン・ベルゼンでの演奏を、アウシュヴィッツの女性楽団で生き延びたチェロ奏者アニタ・ラスカーが聴いていた。3日後の手紙で、彼女は伴奏者を「これほど美しい演奏は想像できない」とたたえた。のちに彼女はイギリス室内管弦楽団に入り、ブリテンの指揮で弾くようになった。1969年6月、オールドバラ音楽祭の直前にこの手紙をブリテンに貸したところ、開幕の夜にスネイプ・モルティングズのホールが全焼する。翌朝、焼け跡でブリテンは「アニタ、君の手紙はポケットの中で無事だよ」と声をかけたと伝えられる。
「お高くとまった音楽はいらない」(22歳・1936年)
夜行郵便列車を描く記録映画『ナイト・メール』の音楽を書いたとき、22歳のブリテンは監督のハリー・ワットから「お高くとまった音楽はいらない」と言われ、ジャズ風にするよう求められたと伝えられる。ジャズに関心のなかったブリテンは、列車の音そのものを楽譜に書き込んだ。大英図書館に残る1936年1月12日付の自筆総譜には、楽器と並んで「圧縮空気」「スレートに紙やすり」「立坑を落ちる石炭」といった指定がある。3日後にブリテン自身の指揮で録音された音楽は、オーデンが列車のリズムに合わせて書いた詩と重ねられた。
出典・参考資料