ミハイル・イヴァノヴィッチ・グリンカ

ミハイル・イヴァノヴィッチ・グリンカ

グリンカ

Glinka, Mikhail Ivanovich

1804年6月1日 – 1857年2月15日 (52歳没)

ロシア 作曲家

ミハイル・イヴァノヴィッチ・グリンカの人物情報

ロシアの作曲家である。1804年、スモレンスク県ノヴォスパスコエの地主の家に生まれた。ペテルブルクの貴族寄宿学校を出て役所に勤めながら作曲を始め、1830年から4年間、イタリアとベルリンで学んだ。1836年、ロシアの歴史に題材をとったオペラ「皇帝に捧げた命」(「イヴァン・スサーニン」)で大成功を収め、1842年にはプーシキンの物語詩によるオペラ「ルスランとリュドミラ」を初演した。のちに管弦楽曲「ホタ・アラゴネーサ」「カマリンスカヤ」も書いた。1857年、ベルリンで亡くなった。

同時代の人物

グリンカと同じ1804年には、3月にワルツのヨハン・シュトラウス、7月にフランスの作家ジョルジュ・サンド、12月にのちの英国首相ディズレーリ(DB名ベンジャミン・ディズレーリ)が生まれた。前年12月生まれのベルリオーズは半年年上である。

ロシアでは、プーシキンが5歳上、ゴーゴリが5歳下だ。日本では、適塾を開いた緒方洪庵が6歳下にあたる。

年齢で見る生涯

  • 10〜11歳(1814〜15年) 叔父の楽団が演奏したクルーセルのクラリネット四重奏に心を奪われる。絵の先生にとがめられ、「音楽はぼくの魂なんです」と答えたと『手記』に書いている
  • 13歳(1817年) ペテルブルクの貴族寄宿学校に入る
  • 25〜29歳(1830〜34年) イタリアで約3年を過ごし、ベルリンでデーンに作曲理論を学ぶ
  • 32歳(1836年12月) 「皇帝に捧げた命」初演
  • 38歳(1842年12月) 「ルスランとリュドミラ」初演。前作とちょうど6年違いの同じ日(新暦12月9日)だった
  • 40〜43歳(1845〜47年) スペインに滞在し、民謡を書き留める
  • 52歳(1857年2月) ベルリンで死去。同年5月、妹リュドミラの尽力でペテルブルクに改葬される

作曲家として広く認められたのは32歳と遅い。それまでは役所勤めや療養を兼ねた外国暮らしを続ける、腕の立つ愛好家だった。

人物のつながり

  • プーシキン:寄宿学校の同級生レフの兄。「ルスランとリュドミラ」の筋書きは本人の助言で作るつもりだったが、1837年の詩人の死でかなわなかった。
  • ベリーニ(DB名ヴィンチェンツォ・ベリーニ):ミラノで親しくなった。グリンカは『手記』で、ベリーニは本能で、とくに女性の心を動かそうとして書いた、と評している。
  • メンデルスゾーン(DB名フェリクス・メンデルスゾーン):1831年、ミラノで病床のグリンカを訪ねてきた。グリンカの回想では、少しからかうような調子で、軽いロンドを1曲弾いただけだったという。
  • ベルリオーズ:1845年春、パリの演奏会でグリンカの作品を取り上げた。同じ年、旅券をなくしたグリンカは、ベルリオーズの書いた記事などを身元の証明にして仮の旅券を得ている。

エピソード

空腹に救われた反乱の日(21歳・1825年)

1825年12月26日(旧暦14日)の朝、グリンカは知人と宮殿前の広場へ出かけた。デカブリストの反乱の日である。宮殿から出てきた皇帝ニコライ1世が群衆の中へ歩み入り、「子どもたちよ、散りなさい」と呼びかける姿を見た。数時間後、朝食抜きのグリンカは空腹に負けて知人宅へ向かう。まもなく反乱軍への砲撃が始まり、『手記』には「このつまらぬ事情が命を救ったのかもしれない」とある。数日後の真夜中には上官のもとへ呼び出された。反乱に加わった寄宿学校の元監督キュヘリベケルが逃亡中で、その甥たちとの関係を疑われたのだ。「魂がかかとへ逃げ込んだ」と書くほど怯えたが、フランス語で事情を説明して無事に帰された。

「夢遊病の女」で抱き合って泣く(26歳・1831年)

1831年3月、ミラノでベリーニのオペラ「夢遊病の女」が初演され、グリンカはロシア公使のボックス席を借りて通った。『手記』によれば、主演のパスタとルビーニは第2幕で自ら泣きながら歌い、謝肉祭の季節なのに客席のあちこちで人々が涙をぬぐっていた。グリンカも友人シテリチと抱き合い、「感動と歓喜の涙を滝のように流した」。家に帰ると覚えた旋律をピアノで探り、同行の歌手イワノフに歌わせて伴奏した。のちにこの主題で嬉遊曲も書いている。

「もう粘土ではない、磁器だ」(32歳・1836年)

「皇帝に捧げた命」初演から16日後の1836年12月25日(旧暦13日)、ペテルブルクでグリンカを祝う宴が開かれた。4人の文人が1節ずつ詞を書き、祝いのカノンを作った。グリンカの名は「粘土(グリーナ)」に通じる。ヴィエリゴルスキー伯は「われらがグリンカは、もはや粘土ではなく磁器だ」と詠み、ジュコーフスキーは「グリンカの健康を祝してグリューワイン(グリントヴェイン)を一杯」と続けた。最後にプーシキンが「妬みが歯ぎしりしようと、もうグリンカを泥に踏みにじることはできない」と結んだ。プーシキンが決闘の傷で亡くなるのは、この約7週間後である。20年後、ベルリンから遺骸を運んだ棺の包みには「磁器」と書かれていたと伝えられる。

出典・参考資料

  • Wikipedia(ru)「Глинка, Михаил Иванович」「Кюхельбекер, Вильгельм Карлович」、Wikipedia(en)「La sonnambula」、コトバンク「グリンカ」
  • М. И. Глинка「Записки М. И. Глинки 1804—1854 гг.」(『Русская старина』1870年、第1巻。Викитека):クルーセルの四重奏と「музыка душа моя」、寄宿学校、1825年12月14日の広場と真夜中の呼び出し、ミラノでの「夢遊病の女」、ベリーニ評、メンデルスゾーンの訪問
  • М. И. Глинка『Записки』(ред. А. Н. Римский-Корсаков、Юрайт、2019年。РХГА「Глинка」サイトのPDF):同上の照合
  • М. И. Глинка『Записки』第12期(Музыка、1988年。Викитека):ポーで旅券をなくし、ベルリオーズの記事などで仮旅券を得た話
  • 「Канон в честь М. И. Глинки」(Викитека。オドエフスキーの手稿の書き込みによる各節の作者、1836年12月13日の宴、同15日の楽譜出版)
  • Л. И. Шестакова の回想(『Русская старина』1870年、621頁。Wikipedia(ru) 経由で確認、原本は未見)