マヌエル・アサーニャ
アサーニャ
Azaña Díaz, Manuel
1880年1月10日 – 1940年11月3日 (60歳没)
マヌエル・アサーニャの人物情報
スペインの政治家・作家で、第二共和政の首相と最後の大統領を務めた。マドリード近郊のアルカラ・デ・エナレスに生まれ、法務省の官吏として働きながら、マドリードの文化団体アテネオを拠点に評論や小説を書いた。1931年に共和政が成立すると陸軍大臣として軍の改革を進め、同年10月に首相となる。1936年5月に大統領に選ばれたが、2か月後に軍の反乱が起きて内戦となった。1939年2月にフランスへ逃れて大統領を辞任し、1940年11月、亡命先のモントーバンで60歳で死去した。
同時代の人物
アサーニャは1880年1月10日の生まれで、日本の永井荷風とは38日しか違わない。荷風の『断腸亭日乗』と同じく、アサーニャの日記も時代を知る第一級の資料として読まれている。同じスペインではピカソと詩人のフアン・ラモン・ヒメネスが1歳下、オルテガ・イ・ガセットが3歳下である。
亡くなった1940年には、同世代の人々が続けて世を去った。
クレーとトロツキーはアサーニャより2か月ほど早い1879年末の生まれで、3人とも60歳で亡くなった。
年齢で見る生涯
政治の表舞台に立ったのは51歳になってからで、国政の中心にいたのは1931年から39年までの8年足らずだった。それまでは長く、官吏と文筆の二足のわらじだった。
人物のつながり
エピソード
出版されなかった本で文学賞(46歳・1926年)
アサーニャが作家として公に認められたのは、本にならなかった伝記によってだった。1926年の国民文学賞は評論部門で、5000ペセタずつの賞が2人に贈られた。1人がアサーニャの『ドン・フアン・バレーラ伝』である。ところが彼はこれを本として出さないまま終わり、2020年の国立図書館の展覧会では、1925年の署名がある第2稿の最終ページが展示された。もう1人の受賞者は17歳下の文学史家サインス・ロドリゲスで、12年後の1938年1月、フランコの最初の内閣で国民教育相に就いている。
フランコの書棚で眠っていた日記(52〜53歳・1932〜33年)
アサーニャは首相時代の日記を、ジュネーブで領事を務める妻の兄リバス・シェリフに預けた。内戦中、そのうち3冊が副領事エスピノサに持ち出され、フランコの手に渡る。抜粋は反乱軍側の宣伝に使われ、1939年には『アサーニャの私的回想録』という本にもされた。フランコの死後、その文書の中を探しても見つからなかったが、実は装丁のせいで書棚の本に紛れていたとされる。1996年12月23日、娘カルメンが教育文化相に引き渡した。翌年『盗まれた手帳』の題で刊行されている。
棺を覆ったのはメキシコの旗(59〜60歳・1939〜40年)
1939年2月、国境の村ラ・バジョルで国内最後の共和国旗が降ろされた。スペイン政府の記念サイトによれば、アサーニャは友人宛ての書簡で、この旗は「わたしの屍衣になる」と書いている。だが翌年、ヴィシー政権は彼の棺に共和国旗を掛けることを許さなかった。メキシコ大使ロドリゲスは知事に「棺はメキシコの旗で覆う。われわれには名誉、共和派には希望、あなた方には苦い教訓となろう」と告げたと伝えられ、葬儀の費用もメキシコ側が持った。ラ・バジョルの旗は押収された箱の中から、1984年にマドリードの警察施設で見つかっている。
出典・参考資料