イワン・パヴロフ

イワン・パヴロフ

パヴロフ(別名:パブロフ)

Pavlov, Ivan Petrovich

1849年9月26日 – 1936年2月27日 (86歳没)

ロシア 応用科学

イワン・パヴロフの人物情報

ロシアの生理学者。1849年リャザンに生まれる。
1889年犬の消化腺についての条件反射を発見し、1902年条件反射学説を提唱、その後の行動心理学の発展に貢献した。
1904年ノーベル医学・生理学賞を受賞。

同時代の人物

1849年生まれの同い年には、1月の劇作家ストリンドベリ、6月のロシアの政治家ヴィッテ、11月の『小公子』のフランシス・バーネットがいる。帝政ロシアの財政を動かしたヴィッテと、犬の唾液を一滴ずつ数えたパヴロフは、わずか3か月違いの生まれである。

日本では、細菌学の北里柴三郎が3歳下にあたる。北里は1931年に78歳で亡くなり、パヴロフはその後も5年近く研究を続けた。

6歳下のフロイトは、パヴロフが亡くなったとき79歳だった。同じ時代に、一方は実験室の犬から、もう一方は患者との対話から、心の働きを探っていたことになる。

年齢で見る生涯

  • 14〜15歳(1864年) リャザンの神学校に進む。司祭の家に生まれ、聖職者になる道を歩んでいた
  • 20〜21歳(1870年) 聖職の道を捨て、ペテルブルク大学へ。法学部に入るが、17日で自然科学科に移る
  • 40〜41歳(1890年) 軍医アカデミーの薬理学教授となり、実験医学研究所の生理学部門も任される
  • 45歳(1894年12月) 「体操と自転車を愛好する医師の会」をつくる
  • 55歳(1904年) ノーベル生理学・医学賞。授賞理由は条件反射ではなく、消化の生理学の研究だった
  • 71歳(1921年) レーニン署名の人民委員会議決定で、研究と生活の保障を受ける
  • 85歳(1934年12月) 人民委員会議に抗議の手紙を送る
  • 86歳(1936年2月) レニングラードで肺炎のため死去

教授の職に就いたのは40歳を過ぎてからで、ノーベル賞は55歳のとき。「パヴロフの犬」で知られる条件反射の研究は、その後の30年あまりをかけた仕事である。

人物のつながり

  • セーチェノフ:ロシア生理学の先駆者。神学校の最終学年に彼の『脳の反射』を読み、評論家ピーサレフの文章とともに、自然科学に進むきっかけになった。
  • レーニン:21歳下。1921年1月24日、パヴロフと協力者の研究条件を保障する人民委員会議決定に署名した。のちのコルトゥシの研究所も、この流れで建てられた。
  • スターリン:伝記作者トーデスの研究によれば、パヴロフは1927年、知識人への扱いに抗議する手紙をスターリンに送り、「今日、私はロシア人であることが恥ずかしい」と書いた。

エピソード

夏の朝11時は「ゴロトキ」の時間(41〜80歳・1891〜1929年)

パヴロフ一家は1891年から革命の1917年まで、毎夏エストニアの海辺の村シラミャギ(現シッラマエ)の同じ別荘で過ごした。夏は研究から離れ、朝食後の2時間は花壇の手入れにあてる。11時ごろになると男たちが集まり、棒を投げて木の駒をはじき出すロシアの遊び「ゴロトキ」が始まった。仲間の画家や教授、息子たちと年長組・若者組に分かれて戦い、甥の回想によれば、いちばんよく響いたのはパヴロフ本人の声だった。成績は日誌に付け、夏の終わりには表彰式まで開いた。晩年のコルトゥシでも研究所員と投げ続け、80歳の誕生日の翌日、1929年9月27日には「コルトゥシ・ゴロトキ組合の親方」の称号を贈られている。

「パヴロフのベル」は鳴っていなかった(50代〜86歳・1900年代〜1936年)

ベルが鳴ると唾液を出す犬は、日本でも「パヴロフの犬」の定番の姿だ。ところが伝記作者トーデスによれば、パヴロフと協力者たちは30年以上にわたる数万回の実験で、ベルをほとんど使っていない。合図に使ったのはメトロノーム、ブザー、ハーモニウム(足踏みオルガン)、電気刺激などで、メトロノームの速さや和音の聞き分けまで調べた。英語圏でベルの話が広まったのは、ロシア語の「звонок(ズヴォノーク、電気ブザーやベル)」が bell と訳されたことが一因だという。「条件反射」も、本人の言葉では「条件つきの(условный)反射」だった。

「あなた方が世界に蒔いているのはファシズムだ」(85歳・1934年)

キーロフ暗殺の3週間後の1934年12月21日、85歳のパヴロフは、モロトフが議長を務める人民委員会議に手紙を送った。「革命は私をほぼ70歳でとらえた」と書き起こし、世界プロレタリア革命を信じるのは間違いだと言い切る。「あなた方が文化世界に蒔いているのは革命ではなく、ファシズムである」「私たちは衰えることのない恐怖と暴力の体制のもとで生きてきたし、今も生きている」。そして最後を「祖国と私たちを容赦してほしい」と結んだ。国の手厚い支援で研究を続けながら、弾圧への抗議は最晩年までやめなかった。手紙の原本はロシア国立現代史文書館(РГАНИ)に残っている。

出典・参考資料

  • Wikipedia(ru)「Павлов, Иван Петрович」、Большая российская энциклопедия「Павлов Иван Петрович」(検索結果の抜粋で確認)、コトバンク「パブロフ」
  • Л. И. Громова「Павловы в Силламягах: новые документы」(『Интегративная физиология』2021年2巻2号、116〜134頁。Мемориальный музей-квартира И. П. Павлова 所蔵の写真・回想を使用。intphysiology.ru)、Naked Science による同論文の紹介記事(2021年)
  • Daniel P. Todes『Ivan Pavlov: A Russian Life in Science』(Oxford University Press、2014年。冒頭文は Marginal Revolution の紹介記事で確認)、Todes「Ivan Pavlov in 22 surprising facts」(OUPblog、2014年)
  • Радио Свобода、М. Ефимова によるトーデスの伝記の紹介(svoboda.org/a/26744821.html)
  • Эхо「„Под Вашим косвенным влиянием фашизм постепенно охватит весь культурный мир“: подлинник письма академика Ивана Павлова в Совнарком」(2026年5月28日。В. Редекоп が РГАНИ で得た原本の紹介)
  • 1921年の決定:marxists.org(Lenin, 24 January 1921、Izvestia 1921年2月11日付30号に掲載)