エドムント・フッサール
フッサール
Husserl, Edmund
1859年4月8日 – 1938年4月27日 (79歳没)
エドムント・フッサールの人物情報
現象学を創始した哲学者。オーストリア帝国領モラヴィアのプロスニッツ(現在のチェコのプロスチェヨフ)で、ユダヤ系の商人の家に生まれた。ウィーン大学で数学の博士号を取ったのち、ブレンターノの講義に触れて哲学に転じる。『論理学研究』(1900〜01年)で名を知られ、ゲッティンゲン大学、フライブルク大学で教えた。意識に現れるものをありのままに記述する方法を磨き、20世紀の哲学に大きな影響を与えた。晩年はナチス政権のもとで、ユダヤ系であるために大学から締め出された。
同時代の人物
フッサールが生まれた1859年には、日本で坪内逍遥が生まれている。逍遥は6月生まれで、2か月半ほど年下にあたる。同じ年の5月にはピエール・キュリーとアーサー・コナン・ドイルも生まれた。
故郷モラヴィアに目を向けると、3歳上のフロイトはフライベルク(現在のプシーボル)、1歳下のアルフォンス・ミュシャはイヴァンチツェの生まれである。精神分析、現象学、アール・ヌーヴォーの担い手が、同じ時期に同じ地方から出たことになる。フッサールが亡くなった1938年、81歳のフロイトもナチスに併合されたウィーンを離れ、ロンドンに亡命した。
年齢で見る生涯
数学から出発し、最初の哲学の主著を出したのは41歳のとき。晩年の大作『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』は、退官から8年後の1936年に世に出た。
人物のつながり
エピソード
「哲学者と名乗れるのか」(45〜47歳・1905〜06年)
ゲッティンゲンでのフッサールは、長く員外教授のままだった。1905年、数学者ヒルベルトの後押しで正教授への昇任が持ち上がると、哲学部は「学問的な重要性に欠ける」として退けた。翌1906年、文部省の措置で正教授にはなったが、9月25日の個人的な手記にこう書いている。哲学者と名乗るなら、まず理性の批判という課題を解かねばならない。その見取り図なしには、本当に生きていくことはできない。曖昧さと揺れ動く疑いの苦しみは、もう存分に味わった――。翌年の講義で、彼は現象学の考え方を初めてまとまった形で示す。
祝典から73日後の処分(73〜74歳・1933年)
1933年1月23日、フライブルク大学はフッサールの博士号取得50周年を盛大に祝った。ところが4月6日、同じ大学が彼から教授資格を取り上げる。ユダヤ系の公務員を休職させるバーデン州の布告によるもので、74歳の誕生日の2日前だった。ハイデガーの学長就任はこの後で、彼が処分を決めたというのは正確ではない。7月、フッサールは友人に、新しい官吏法と休職を「生涯最大の屈辱」と感じたと書いた。1938年の葬儀に大学を代表して来たのは、歴史家ゲルハルト・リッター1人だった。
遺稿4万ページと、瓦礫から出てきた骨壺(没後・1938年〜)
フッサールは考えたことを速記で書き留め続け、約4万ページの草稿を残した。没後数か月、研究のため訪れたベルギーのフランシスコ会士ファン・ブレダは、遺稿をナチス・ドイツから運び出すと決める。妻マルヴィーネの信頼を得た彼は、約100キロの草稿をトランク3つに詰め、一人で列車に乗ってベルリンのベルギー大使館に届けた。草稿は外交便で11月にルーヴァンに着く。翌年送られた家具のコンテナは、戦時中にアントワープ港の爆撃で失われた。評伝によれば、ファン・ブレダが瓦礫から見つけ出せたのは、フッサールの遺灰を納めた骨壺だけだったという。
出典・参考資料