ブロニスロウ・マリノフスキー
マリノフスキー
Malinowski, Bronislaw Kasper
1884年4月7日 – 1942年5月16日 (58歳没)
ブロニスロウ・マリノフスキーの人物情報
ポーランド出身の人類学者。オーストリア=ハンガリー帝国領のクラクフに生まれ、ヤギェウォ大学で哲学の博士号を取り、ライプツィヒ大学を経て1910年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に移った。1914年、調査のため渡ったオーストラリアで第一次世界大戦が始まり、オーストリア臣民のため「敵国人」の立場になったが、当局の許しを得てパプアで調査を続けた。トロブリアンド諸島に住み込み、現地の言葉で暮らしを観察する「参与観察」の手法を確立した。1922年の『西太平洋の遠洋航海者』では、島々を結ぶ儀礼的な交換「クラ」を描いた。LSE教授を経て、晩年はアメリカのイェール大学で教えた。
同時代の人物
マリノフスキーと同じ1884年には、アメリカ大統領のトルーマン、画家のモディリアーニが生まれている。日本では竹久夢二が同い年で、5か月ほど年下にあたる。1歳上には、同じオーストリア=ハンガリー帝国に生まれた経済学者のシュンペーターがいる。
日本の民俗学を開いた柳田国男は9歳上である。柳田が『遠野物語』を出した1910年に、マリノフスキーはロンドンに渡って人類学の道に入った。
マリノフスキーが58歳で亡くなった1942年には、同じ帝国に生まれたシュテファン・ツヴァイクも2月に亡命先のブラジルで世を去った。日本では、マリノフスキーの死の5日前に萩原朔太郎が亡くなっている。
年齢で見る生涯
戦争で足止めされた30〜34歳の4年間が、そのまま代表作の材料になった。没後25年で出た日記には、現地の人々を蔑む言葉や苛立ち、性の悩みまで書かれており、大きな論争を呼んだ。
人物のつながり
エピソード
「8歳までに、2つの世界を生きた」(4〜10歳・1888〜94年頃、本人の回想)
クラクフの大学教授の家に生まれたマリノフスキーは病弱で、幼いころの多くをポーランド南部の山あいの村で過ごした。自伝の走り書きによれば、山の人々に交じって方言を話し、羊や牛の番をし、何日も家を抜け出しては山賊の昔話を覚えたという。1930年代の教科書の序文では、8歳までに2つのまったく別の文化を生きたと振り返る。言葉も食べ物も、食卓の作法も信仰も2通りだった。ただ伝記作家ヤングは、人類学者という天職を裏づける自己演出の面もあるとみている。
病気で研究を止められ、手に取った『金枝篇』(21歳前後・1905年頃、本人の回想)
1925年11月、リヴァプール大学でフレイザーをたたえる講演をしたマリノフスキーは、冒頭で20年ほど前の自分を描いてみせた。クラクフの大学から、悩みを抱えた学生が出てくる。小脇には、ヤドリギの金の模様が入った緑色の3冊、『金枝篇』を抱えている。病気で物理と化学の研究を止められ、英語の名著を原書で読もうとしたのだという。読み始めるとすっかり「とりこ」になり、人類学に身を捧げると決めた。この話は翌年の著書の献辞に収められた。
「友情の終わり」(30歳・1914年)
1914年、マリノフスキーは英国科学振興協会の大会に合わせてオーストラリアへ渡った。婚約者の自殺で沈んでいた親友ヴィトカツィを、製図と写真の係として連れていた。だが現地で口論が重なり、そこへ大戦が始まる。ロシア臣民の友は軍に入るため帰国し、オーストリア臣民のマリノフスキーは敵国人として残った。日記によれば、友への怒りは深いわだかまりに変わった。11月2日には、学者ロッジの前での発言を友に「訂正」されたことを責め、ラテン語で「友情の終わり」と記す。「芸術は認め、個性を崇める。だが性格には耐えられない」。
出典・参考資料