セルゲイ・ヴィッテ

セルゲイ・ヴィッテ

ヴィッテ(別名:ウィッテ)

Witte, Sergei Yul\'jevich

1849年6月29日 – 1915年3月13日 (65歳没)

ロシア 政治家

セルゲイ・ヴィッテの人物情報

ロシア帝国の政治家。1849年、カフカースのティフリス(現トビリシ)に生まれた。大学で数学を学んだのち鉄道界に入り、駅の切符売りから南西鉄道の支配人に上りつめた。1892年に蔵相となり、シベリア鉄道の建設、酒の専売、金本位制の確立でロシアの工業化を進めた。1905年には全権としてポーツマス条約に調印し、伯爵に叙された。同じ年の革命のさなかに十月詔書の発布を進言し、初代の大臣会議議長(首相)に就いたが、半年ほどで辞任した。回想録は死後に国外で刊行された。

同時代の人物

ヴィッテが生まれた1849年の9月には、同じロシアの生理学者パヴロフが生まれている。パヴロフがノーベル賞を受けた1904年は、日露戦争が始まった年でもある。同じ年には劇作家ストリンドベリ、『小公子』のフランシス・バーネットも生まれた。

日本では、1歳下に小泉八雲がいる。八雲は日露戦争さなかの1904年9月に亡くなり、講和を見ることはなかった。

年齢で見る生涯

日付はロシア旧暦(ユリウス暦)で書く。DBの生没日(1849-06-29〜1915-03-13)は新暦である。

  • 20〜21歳(1870年) オデッサの大学で数学を修め、鉄道の現場に入る
  • 26歳(1875年12月) ティリグルで新兵を乗せた列車が転落し、百数十人が死亡。運行責任者として禁錮4か月の判決。のちに2週間の営倉入りに改められ、夜だけ営倉で寝た
  • 39歳(1888年10月) 皇帝の列車がボルキで脱線。事故調査に呼ばれ、翌年、財務省の鉄道局長に抜擢される
  • 42〜43歳(1892年) 2月に交通相、8月に蔵相となる
  • 48歳(1897年) 金本位制への移行を仕上げる
  • 54歳(1903年8月) 蔵相を解かれ、実権の乏しい大臣委員会議長に回される
  • 56歳(1905年) 8月(新暦9月)にポーツマス条約に調印。10月に初代の大臣会議議長となる。翌年4月に辞任
  • 65歳(1915年2月) ペトログラードで死去

蔵相を11年務めたのに、首相の座にいたのは半年あまりだった。辞任したときまだ56歳で、その後は回想録を書き続けた。

人物のつながり

  • セオドア・ルーズベルト:ポーツマス会議の仲介者。回想録には、大統領との関係は「さほど円満でも親密でもなかった」とある。妥協しないヴィッテに手を焼いた大統領は、途中からニコライ2世に直接働きかけた。
  • トロツキー:30歳下。1905年11月、ヴィッテがストライキ中の労働者に「兄弟たち」と呼びかけると、ソヴィエトの機関紙で「厚かましさと媚びの入り混じった説教」とこき下ろした。翌月、ヴィッテ内閣のもとでソヴィエト幹部は逮捕され、トロツキーも捕らえられた。
  • アレクサンドル3世:ヴィッテを大臣に引き上げた皇帝。回想録では、ずけずけ物を言っても不興を買わなかった唯一の相手と振り返る。

エピソード

女優に恋して、数学者の道をやめる(20〜21歳・1870年)

オデッサの大学で数学を学んだヴィッテの卒業論文「無限小量について」は、数式のない哲学的な論考だった。回想録によれば、40年近く後にパリの書店のショーウィンドーでその仏訳を見かけたという。続いて金メダルを狙う天文学の論文に取りかかったが、女優ソコロワに恋をして書く気が失せ、メダルを逃した。教授を目指しても、母と叔父に「貴族のする仕事ではない」と反対され、交通相の勧めで鉄道に入る。最初の仕事は駅の切符売りだった。

「陛下の首を折ることになります」(39歳・1888年)

1888年夏、南西鉄道の支配人ヴィッテは皇帝の列車に同乗し、一晩眠れなかった。重い列車を貨物用の機関車2両で引き、高速で走らせていたからだ。減速を求める報告を出すと、皇帝アレクサンドル3世に「よその鉄道では何も起きなかった。おまえの鉄道はユダヤ人の鉄道だから速く走れないのだ」と言われた(経営者がユダヤ系だったことへの当てこすり)。回想録によれば、同じ理屈で迫る大臣に、ヴィッテは「ほかの方はご勝手に。このままでは陛下の首を折ることになります」と言い放った。2か月後、皇帝の列車はボルキで脱線し、20人以上が亡くなった。

煙突の時限爆弾と「私をばかだとお思いか」(57〜60歳・1907〜10年)

1907年1月29日の夕方、ペテルブルクのヴィッテ邸で、使用人が暖炉の中に包みを見つけた。夜9時に爆発するはずの時限爆弾で、時計が止まっていた。翌日、宮廷の煙突掃除人に調べ直させると、台所の煙突からもう1個が出てきた。のちに極右団体とつながる男の犯行と報じられ、ヴィッテは秘密警察の関与を疑う。1910年、長い意見書を首相ストルイピンに送ると、ストルイピンは「私をばかだとお考えか、私も暗殺に加わったとお考えか、どちらかだ」と詰め寄った。ヴィッテはどちらとも答えなかったという。

出典・参考資料

  • Wikipedia(ru)「Витте, Сергей Юльевич」「Тилигульская катастрофа」「Денежная реформа Витте」、Wikipedia「セルゲイ・ウィッテ」、Wikipedia(en)「Borki train disaster」、人名辞典DB(jinmei.info-v2)
  • С. Ю. Витте『Воспоминания』第1巻(大学時代、女優ソコロワ、鉄道入り、ティリグル事故と営倉。flibusta.su 掲載テキスト)
  • The Memoirs of Count Witte, tr. Abraham Yarmolinsky, 1921(第1章「My Youth and Early Career」〔皇帝列車の速度をめぐる口論、ボルキ事故〕、第5章「The Peace of Portsmouth」〔ルーズベルト〕。Internet Archive: memoirsofcountwi00wittuoft)
  • Зеркало недели「29 октября: титулярный советник и царь」(https://zn.ua/ART/29_oktyabrya_titulyarnyy_sovetnik_i_tsar.html)
  • Iain Lauchlan「The Accidental Terrorist: Okhrana Connections to the Extreme-Right and the Attempt to Assassinate Sergei Witte in 1907」Revolutionary Russia 14-2(2001年。Witte『Воспоминания』1960年版第3巻第67章、ストルイピン宛て1910年5月3日付書面〔ГАРФ ф.102〕に依拠。https://storre.stir.ac.uk/bitstream/1893/1415/1/at091.pdf)
  • Wikipedia(ru)「Отношения Столыпина и Витте」(ストルイピンの返答。Сидоровнин『Пётр Аркадьевич Столыпин: Жизнь за Отечество』2007年を出典とする)
  • Л. Троцкий「Ответ графу Витте」(『Известия Совета Рабочих Депутатов』第6号、1905年11月5日。marxists.org「Наша первая революция」所収)