セオドア・ルーズベルト
ルーズベルト
Roosevelt, Theodore
1858年10月27日 – 1919年1月6日 (60歳没)
セオドア・ルーズベルトの人物情報
アメリカ合衆国第26代大統領(在任1901〜09年)。ニューヨークの裕福な家に生まれ、病弱な少年時代を体を鍛えて乗り越えた。海軍次官、米西戦争の義勇騎兵隊の指揮、ニューヨーク州知事を経て副大統領となり、1901年のマッキンリー暗殺で42歳の史上最年少大統領となった。大企業の独占に切り込み、国有林や国立公園など広大な自然保護地を定めた。日露戦争の講和を仲介し、1906年にアメリカ人初のノーベル平和賞を受けている。テディベアの名の由来としても知られる。
同時代の人物
ルーズベルトが生まれた1858年の12月には、イタリアでプッチーニが生まれている。11月にはスウェーデンの作家ラーゲルレーヴも生まれた。同い年の2人は、ルーズベルトが1906年に平和賞、ラーゲルレーヴが1909年に女性初の文学賞と、相次いでノーベル賞を受けた。
3か月後の1859年1月には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が生まれた。1910年5月、退任後のルーズベルトはベルリン郊外デーベリッツで皇帝と馬を並べ、数時間にわたって軍の演習を見学している。
1912年の大統領選を争った3人は、2年足らずの間に生まれている。ウィルソンが1856年12月、タフトが1857年9月、ルーズベルトが1858年10月の生まれである。
日本では、8か月下に坪内逍遥、4歳下に牧野富太郎がいる。9歳で自室に「自然史博物館」を開いたルーズベルトは、牧野と同じく標本集めに熱中した博物学少年だった。
年齢で見る生涯
大統領を退いたときもまだ50歳だった。その後の10年で、アフリカでの狩猟旅行、第三党からの出馬、55歳でのアマゾン探検と、ふつうなら一生分の冒険をこなしている。
人物のつながり
エピソード
ボート泥棒と『アンナ・カレーニナ』(27歳・1886年)
1886年3月、ダコタの牧場からボートが盗まれた。保安官代理でもあったルーズベルトは、仲間2人と急ごしらえの舟で川を下り、3日目に3人組を取り押さえた。だが川は氷で詰まって進めない。見張りの合間に読んだのは『アンナ・カレーニナ』で、「陰気な景色がトルストイによく合っていた」と書いている。最後は泥棒を荷馬車に乗せ、自分は銃を手に泥道を歩いて付き添い、36時間眠らずに町の保安官へ引き渡した。のちに泥棒の一人から刑務所で書いた手紙が届く。追伸には「この秋ビスマークに寄ることがあれば刑務所へどうぞ。お会いできればうれしい」とあった。
大使は手袋をはめたまま(44〜50歳・1903〜09年)
大統領時代のルーズベルトは、午後になると「テニス内閣」と呼ばれた仲間を連れてワシントン郊外を歩き回った。冬や早春には、目標地点までまっすぐ進み、途中に何があっても迂回しない散歩をした。氷の浮かぶ小川を泳いで渡ったこともある。ポトマック川を泳ぐときは服を脱ぐのが常だった。自伝によれば、あるときフランス大使ジュスランに「大使、手袋を外していませんよ」と声がかかった。大使はすかさず「はめておきます。ご婦人に会うかもしれませんから」と答えたという。
「thru」に負けた綴り改革(47〜48歳・1906年)
1906年8月27日、ルーズベルトは政府印刷局に、行政府の文書では簡略綴りを使うよう命じた。カーネギーが資金を出した委員会の300語のリストに従い、through を thru、though を tho と書くというものだ。新聞は大統領の名前まで「Rucevelt」と綴ってからかい、12月には下院が辞書どおりの綴りを求める決議を通す。ルーズベルトは命令を撤回し、友人の文学者マシューズに「戦っても新しい綴りは守れなかった。負けたのに見苦しい争いを続けても無益だ」と書き送った。自分でも疑問だった thru が敗因だとこぼしつつ、私的な手紙ではその後も簡略綴りを使い続けた。
出典・参考資料