アンリ・バルビュス
バルビュス
Barbusse, Henri
1873年5月17日 – 1935年8月30日 (62歳没)
アンリ・バルビュスの人物情報
フランスの作家である。パリ近郊のアニエールに生まれ、詩人として出発した。詩人カチュール・マンデスの娘と結婚し、小説『地獄』(1908年)で注目される。第一次世界大戦が始まると41歳で志願して前線に立ち、塹壕の日々を描いた『砲火』(1916年)でゴンクール賞を受けた。戦後は反戦を掲げる「クラルテ」運動を起こし、1923年に共産党に入る。1932年にはロマン・ロランとともにアムステルダムの世界反戦大会を呼びかけた。1935年にスターリンを礼賛する伝記を出し、同じ年、訪問中のモスクワで肺炎のため62歳で亡くなった。
同時代の人物
1873年生まれの同い年に、ロシアの作曲家ラフマニノフ(DB名「セルゲイ・ラフマニノフ」)がいる。日本では泉鏡花と与謝野鉄幹が同じ年に生まれた。鉄幹は1935年3月に62歳で亡くなっており、バルビュスとは生まれた年も、亡くなった年も、享年も同じである。
5歳上には反戦大会の準備委員会を率いたゴーリキー(DB名「マクシム・ゴーリキー」)、5歳下には晩年に伝記を書いたスターリン(DB名「ヨシフ・スターリン」)がいる。
年齢で見る生涯
詩人として出発した文学青年が広く名を知られたのは、43歳のときの『砲火』だった。それから亡くなるまでの約19年は、反戦運動と政治活動に費やされた。
人物のつながり
エピソード
「これは社会の戦争だ」と書いて志願した41歳(41歳・1914年)
バルビュスは若いころから胸が弱く、1912年には胸膜炎でスイスのレザンの療養所に入ったと伝えられる。1914年の開戦時、41歳で体の弱い彼に前線へ出る義務はなかった。それでも志願し、8月9日には「ユマニテ」紙の主筆ルノーデルに、これは軍国主義と帝国主義を倒す「社会の戦争」だと書き送った。前線からはほぼ毎日妻に手紙を書いたが、心配させまいと、恐ろしさは控えめにしか書かなかったという。のちの『砲火』は、アルプスの療養所の患者たちが開戦を知る場面から始まる。
「汚い言葉も、そのまま書く」(42〜43歳・1916年)
1916年初め、バルビュスは病気で前線を離れ、入院先のシャルトルなどで『砲火』の大半を書いた。兵士の話し言葉をそのまま写した小説で、第13章「汚い言葉」では、メモを取る語り手に戦友のバルクが尋ねる。本に俺たちを出すなら、しゃべるとおりに書くのか、上品に直すのか。印刷屋は汚い言葉を刷らないだろう、と。語り手は「汚い言葉は、ちゃんとその場所に入れるよ。それが本当のことだからね」と答える。献辞は「クルイと119高地で、私のかたわらで倒れた戦友たちの思い出に」である。
伝記で証言した幹部たちが、次々に粛清される(59〜61歳・1932〜35年)
1932年10月にスターリンと会見したバルビュスは、伝記の執筆を引き受けた。資料の多くは党中央委員会の機構から受け取り、1935年2月にパリで刊行した。農業集団化を富農(クラーク)の一掃として正当化し、数百万人が亡くなった1932〜33年の大飢饉には触れない、礼賛一色の本だった。ロシア語版は彼の死後の1936年に急いで刊行されたが、まもなく図書館から回収された。証言を引いた党幹部の多くが、大粛清で「人民の敵」とされたためである。翻訳を編集した党宣伝部長ステツキーも1938年に銃殺された。
出典・参考資料