ドメニコ・ギルランダイオ
ギルランダイオ(別名:ドメニコ・ビゴルディ)
Ghirlandaio, Domenico
1449年 – 1494年1月11日 (約45歳没)
ドメニコ・ギルランダイオの人物情報
初期ルネサンスのフィレンツェの画家。本名はドメニコ・ディ・トンマーゾ・ビゴルディ。父トンマーゾが「ギルランダイオ(花冠づくり)」と呼ばれたことから、この通称で知られる。金細工の修業を経て画家になり、弟たちと大きな工房を営んだ。1481〜82年にはローマのシスティーナ礼拝堂の壁画に加わり、フィレンツェではサセッティ礼拝堂とトルナブオーニ礼拝堂の壁画を手がけた。聖書の場面に同時代の市民の肖像を描き込む作風で人気を集め、若いミケランジェロも工房で修業している。肖像画「老人と孫」(ルーヴル美術館)も名高い。1494年1月、ペストで亡くなった。
同時代の人物
ギルランダイオが生まれた1449年前後は、フィレンツェの画家の当たり年だった。5歳ほど上にボッティチェリ(サンドロ・ボッティチェルリとも)、3歳ほど下にレオナルド・ダ・ヴィンチがいる。アルプスの北では、ほぼ同い年のヒエロニムス・ボッシュが1450年ごろに生まれた。実在の市民を描いたギルランダイオと空想の怪物を描いたボッシュは、同世代でも正反対を向いていた。
日本では、15歳ほど上の狩野正信が室町幕府の御用絵師として活躍していた。画業を一族の家業にした点はギルランダイオと通じる。ギルランダイオが亡くなった1494年1月、ミケランジェロ(ミケランジェロ・ブオナロッティとも)はまだ18歳、ラファエロ(ラファエロ・サンツィオとも)は10歳だった。
年齢で見る生涯
トルナブオーニ礼拝堂の壁画には、1490年の「最も美しい町」フィレンツェが、富と勝利、学芸と建築、豊かさと健康と平和に恵まれていたとたたえる銘文がある。その3年あまり後、画家自身が疫病で世を去った。
人物のつながり
エピソード
フィレンツェの城壁を、ぐるりと絵で埋めたかった(年代不詳)
ヴァザーリ(ジョルジョ・ヴァザーリとも)の『美術家列伝』によれば、ギルランダイオは工房に来た仕事を一つも断らせなかった。女性のかごの縁の輪に絵を付ける注文でも受けよ、弟子がやらないなら自分が描く、と言いつけていたという。その一方で家計の苦労は嫌い、出費の一切を弟ダヴィドに任せた。そのときの言葉として、ヴァザーリは次のように伝える。「仕事は私にまかせて、お前はやりくりを頼む。この芸術のやり方がやっとわかってきた今となっては、フィレンツェの城壁をぐるりと全部、物語の絵で埋める仕事を任されなかったのが残念だ」。
見つからない紋章(40代・1490年代)
トルナブオーニ礼拝堂は、もとはリッチ家が権利を持っていた。ヴァザーリによれば、費用を出せないリッチ家は権利も手放さず、ジョヴァンニ・トルナブオーニは「リッチ家の紋章を最も目立つ名誉ある場所に置く」と契約して、ようやく描く権利を得た。ところが披露の日、リッチ家は自分たちの紋章をどこにも見つけられない。紋章は祭壇画の聖体を納める小祠の上の、4分の1ブラッチョ(約15センチ)の小さな盾に描かれていた。リッチ家は契約書を手に役所に訴えたが、聖体のすぐそばほど名誉な場所はないと退けられた。ヴァザーリはこの話を「貧しさは富の餌食になる」と結んでいる。
契約書で反論された「嫉妬深い師匠」(38〜39歳・1488年)
1553年、ミケランジェロの弟子コンディヴィが出した伝記は、ギルランダイオを「少々嫉妬深い」人として描いた。少年ミケランジェロに素描帳を貸さず、何の助けもしなかったという。15年後、ヴァザーリは『美術家列伝』第2版で反論し、ギルランダイオ家の帳簿にあった父ロドヴィーコの書き込みを写して載せた。日付は1488年4月1日。息子を3年間ドメニコとダヴィドに預けて絵を学ばせ、師匠の側が3年で24フィオリーノを払う、という取り決めである。弟子が謝礼を受け取る契約だった。もっともコンディヴィも、ミケランジェロ本人は師を恨むどころか、腕前も人柄もほめていると書き添えている。
出典・参考資料