ペッカ・ハロネン
ハロネン
Halonen, Pekka
1865年9月23日 – 1933年12月1日 (68歳没)
ペッカ・ハロネンの人物情報
フィンランドの画家。1865年、東部のラピンラハティの農家に生まれた。ヘルシンキの素描学校で学び、1890年からパリに留学した。1894年にはタヒチから戻ったゴーガンに師事している。1895年に結婚し、1902年、トゥースラ湖畔に自ら設計した丸太造りのアトリエ兼住居「ハロセンニエミ」を完成させた。以後30年あまりここで暮らし、雪の森や凍った湖を描き続けた。冬景色の名手として知られ、教会の祭壇画も手がけた。
同時代の人物
ハロネンが生まれた1865年は、フィンランド文化の当たり年である。同じ年の4月に画家ガッレン=カッレラが、12月に作曲家ジャン・シベリウスが生まれた。デンマークの作曲家カール・ニールセンも同い年である。
日本では黒田清輝が1歳下にあたる。黒田は1884年から93年までフランスにいたので、1890年代の初めには2人とも同じパリで絵を学んでいた。
年齢で見る生涯
結婚から自分の家に住むまでに、7年かかった。美術館の解説によれば、晩年のハロネンにとって、自宅の岬の自然は「自分のルーヴル」だった。
人物のつながり
エピソード
「岬には雪が7キュナラ」(33〜36歳・1899〜1901年)
1899年5月、ハロネンはスキーで歩き回って見つけた、トゥースラ湖の細長い岩の岬を買った。ところが資金が足りず、工事が始まらない。翌年3月には友人への手紙で、「うそつきと言わないなら本当のことを言うが、岬には7キュナラ(4メートル余り)の雪が積もっている」とこぼした。1901年春、ようやく工事が始まり、昔ながらの順序でサウナから建てた。働き手は故郷から来たハロネン一族である。見に来た画家リッサネンは、兄弟が「大工ではなく家具職人のように」丸太を削り、すき間を残らず埋めていたと驚いている。ハロネン自身は暖房に熱中し、「かまどの古いしくみに革命を起こす。特許を取るのは面倒だからやめておくが」と書き送った。
零下30度でも写生に出る(30代以降・1895年頃〜)
ハロネンは悪天候でも写生に出かけた。零下30度を超える日にも描き続け、油絵の具が固まって使えなくなると、指とパレットナイフで塗ったと伝えられる。暗くなるまで戻らないことも多く、妻マイヤは、暗闇の中でどうやって絵を傷めずに持ち帰れるのかと不思議がった。帰宅するとアトリエで仕上げにかかる。音楽を聞くと集中できたので、夜はマイヤがよくピアノを弾いた。
「浜辺で泣く牛たち」(40代以降・1900年代後半〜1910年代頃)
8人の子どもにとって、夏は遊ぶだけの季節ではなかった。父の絵のモデルを務めなければならない。湖岸の岩には、前回立った位置を示す足形が刻んであり、毎回そこにぴたりと立って動かずにいる。つらい役目だったので、息子たちはこの種の絵を「浜辺で泣く牛たち」と呼んだ。あるとき子どもたちが「岩陰に隠れて遊ぶ子どもたち」という画題を提案すると、父は名案だと喜び、息子たちに午後をまるごと休みにしてやったという。夜の父は話し上手で、最大6人の子どもに背中をかかとで踏ませ、踏めば踏むほどお話を聞かせたと伝えられる。
出典・参考資料