孟浩然
モウコウネン
Meng Haoran
689年 – 740年 (約51歳没)
孟浩然の人物情報
中国・盛唐の詩人。襄州襄陽(いまの湖北省襄陽市)の人で、浩然は字(あざな)とされ、名を浩とする説もある。若いころは故郷の鹿門山に隠れ住み、40歳ごろ長安に出て進士を受けたが及第しなかった。その後も推薦の機会を自ら逃し、晩年に張九齢の荊州の幕下に短く加わったほかは、ほぼ無位無官のまま生涯を終えた。山水や田園を詠んだ五言詩に優れ、王維とともに「王孟」と並び称される。李白、王維らと親しく交わった。日本では「春眠暁を覚えず」で始まる五言絶句「春暁」で広く知られる。詩文集に『孟浩然集』がある。
同時代の人物
DBに登録されている唐の詩人を、孟浩然を基準に並べると次のとおり。
孟浩然が亡くなった740年、李白は40歳、王維は40歳、杜甫は29歳だった。唐詩の黄金期の「先輩」として、3人が本格的に名を上げる前に世を去ったことになる。
日本では、この740年(天平12年)に九州で藤原広嗣の乱が起き、聖武天皇が平城京を離れて各地を移り歩き始めている。
年齢で見る生涯
40歳まで故郷にこもり、都に出てからも官職はほとんど得られなかった。名声だけが先に広がった生涯である。
人物のつながり
エピソード
たった2句で詩会を終わらせる(40歳頃・728年頃)
長安に出ていたころ、雨上がりの秋の月夜に、宮中の図書を管理する秘書省で名士たちが詩会を開いた。順に句を付けていく場で、孟浩然は「微雲河漢に淡く、疏雨梧桐に滴る」(薄雲が天の川にかすみ、まばらな雨が桐の葉からしたたる)と詠んだ。一座はその清らかさに感嘆し、誰もが筆を置いて、もう後を続けなかったという。友人の王士源が孟浩然の詩集に付けた序文に記す話である。進士に落ちた無位無官の40歳が、都の文人たちを黙らせたわけだ。
「もう飲んでしまったのだ」(46歳以降・734年以降)
襄州刺史で山南道の採訪使を兼ねた韓朝宗は、孟浩然の才を惜しんだ。都へ連れていって朝廷に推薦しようと、先に名を伝え、会う日まで決めていた。ところが当日、孟浩然は友人たちと酒を酌み交わして上機嫌だった。「韓公との約束を忘れたのか」と言われると、「もう飲んでしまった。いまは楽しむだけだ、ほかのことなど構っていられるか」と叱りつけ、最後まで席を立たなかった。推薦の話は消えたが、孟浩然は少しも悔やまなかったという。『新唐書』は、韓朝宗が怒って先に発ったと書き添えている。
治りかけの腫れ物と再会の宴(52歳・740年)
740年、王昌齢が襄陽を訪ねてきた。孟浩然は背中にできた悪性の腫れ物(疽)が治りかけていたが、旧友との再会がうれしく、羽目を外して宴を楽しんだ。そのとき「鮮」(魚などの生もの)を食べたため病がぶり返し、亡くなったと王士源は伝える。王士源が孟浩然の死を知ったのは5年後のことである。孟浩然は書いた詩をすぐ捨ててしまうことが多かった。そのため王士源は各地を回って作品を集め、218首を4巻にまとめた。いま「春暁」が読めるのも、この人の手柄といえる。
出典・参考資料