王維
オウイ
701年 – 761年 (約60歳没)
王維の人物情報
中国・盛唐の詩人、画家。字は摩詰。官は尚書右丞に至ったため王右丞とも呼ばれる。若くして進士に及第し、張九齢に抜擢されて宮廷詩人として名声を得た。安史の乱では反乱軍に捕らわれて官職を受けさせられたが、乱後に許されている。長安郊外の輞川の別荘で友人の裴迪と詩を唱和した『輞川集』など、静かな自然を詠んだ詩に優れ、仏教への深い帰依から「詩仏」と称される。絵画でも名高く、宋の蘇軾に「詩中に画あり、画中に詩あり」と評された。明代には南宗画(文人画)の祖とされ、日本の南画にも影響を与えた。生没年は701年〜761年とするのが一般的だが、『旧唐書』による699年〜759年説などもあり、諸説ある。
同時代の人物
唐詩の黄金期を担った詩人たちは、王維を中心に見ると次のように並ぶ。
DBには未登録だが、日本の遣唐留学生・阿倍仲麻呂は698年生まれ(701年説もある)で、王維とほぼ同世代である。生年に2つの説があるところまで似ている。仲麻呂が長安に着いた717年は、王維が都の予備試験に首席で合格したとされる年でもある。
年齢で見る生涯
※唐代の人物のため、年齢は数え年(生まれた年を1歳とし、年が改まるごとに1歳加える)で書いている。生没年は日本の辞典で一般的な701年〜761年によった。ただし『旧唐書』の699年〜759年説、699年〜761年説など諸説ある。
捕らわれてから亡くなるまでの約5年間、王維は「賊に仕えた」負い目を抱え続けた。晩年の文章には、自分を責める言葉が繰り返し出てくる。
人物のつながり
エピソード
「臣の五短、弟の五長」(61歳・761年)
晩年の王維は、遠く蜀州(四川)の刺史を務める弟・王縉を都に呼び戻したいと皇帝に願い出た。上表文で王維は、自分と弟を5つの点で比べている。乱のとき弟は城を守り、自分は賊中で命を惜しんだ。政治の腕も、義理も、才能も、人柄も弟が上だという。「臣の五短、弟の五長」と書き、「二人ともすでに白髪で、一度別れれば次に会うのはあの世かもしれない」と訴えて、自分の官をすべて削ってほしいと願った。王縉は都に呼ばれたが、兄の最期には間に合わず、王維は弟宛ての別れの手紙を書いたあと、筆を置いて息を引き取ったと伝えられる。
「詩仏」、陶淵明を手厳しく批判する(晩年・750年代)
自然詩人として陶淵明の後継者と見られがちな王維だが、友人の魏居士に宛てた手紙では、陶淵明をばっさり切り捨てている。上役に頭を下げるのを嫌って官を辞めた陶淵明は、のちに貧しくなり、「乞食」という詩で戸口で言葉に詰まる自分を詠んだ。王維はこれを「何度も物乞いをして恥をかいた」と読み、「一度の恥を我慢できず、一生恥をかくのか」と書く。隠者になろうとする魏居士を、官に就くよう説得するための手紙だった。ただし陶淵明の詩はユーモアを交えた一首で、王維の読みは厳しすぎるとする中国の研究者もいる。
絵を見ただけで曲の一拍を言い当てる?(伝承)
王維は太楽丞を務めたほどの音楽通だった。ある客が題のない演奏の絵を見せると、王維は「霓裳羽衣曲の第三畳、第一拍だ」と答えた。楽工を集めて演奏させると、ぴたりと一致したという。この話は唐の『国史補』に見え、『旧唐書』『新唐書』の王維伝にも載っている。ところが北宋の沈括は『夢渓筆談』で、絵に描けるのは一瞬の一音だけで、どの曲にもある音だと反論した。しかも霓裳羽衣曲は第七畳から拍が始まるので、「第三畳の第一拍」などありえないという。その根拠に挙げたのは、白居易の「霓裳羽衣歌」の一句だった。
出典・参考資料