ピエト・モンドリアン

ピエト・モンドリアン

モンドリアン

Mondrian, Piet

1872年3月7日 – 1944年2月1日 (71歳没)

オランダ 絵画

ピエト・モンドリアンの人物情報

オランダの画家。ユトレヒト州のアメルスフォールトに生まれ、アムステルダムの国立美術アカデミーで学んだ。初めは風景画や花の絵を描き、模写や細菌の図を描く仕事で暮らしを支えた。1911年末にパリへ移ってキュビスムに学び、姓の綴りもMondriaanからMondrianに改める。第一次世界大戦中はオランダにとどまり、1917年にファン・ドゥースブルフらと雑誌『デ・ステイル』を創刊した。水平・垂直の黒い線と三原色、白と灰色だけで画面を組み立てる「新造形主義」を唱え、1938年にロンドン、1940年にニューヨークへ移って、同地で没した。

同時代の人物

モンドリアンが生まれた1872年は、日本では島崎藤村と樋口一葉が生まれた年である。藤村はモンドリアンの18日後に生まれ、モンドリアンがニューヨークで亡くなる約5か月前の1943年8月に世を去った。一葉が24歳で亡くなった1896年、同い年のモンドリアンはまだ無名の風景画家だった。

同じ1872年には、白と黒の線画で世紀末を彩ったビアズリーも生まれている。ビアズリーが25歳で亡くなった1898年、モンドリアンはローマ賞の予選を受け、解剖学で落ちていた。作曲家のスクリャービンとヴォーン・ウィリアムズも同い年である。

年齢で見る生涯

  • 20歳(1892年) アムステルダムの国立美術アカデミーに入る
  • 37歳(1909年) 神智学協会に入会する
  • 39歳(1911年12月) パリへ発つ。翌1912年、姓の綴りをMondrianに変える
  • 42歳(1914年7月) オランダに戻った直後に第一次世界大戦が始まり、1919年6月まで国内にとどまる
  • 45歳(1917年) ファン・ドゥースブルフらと雑誌『デ・ステイル』を創刊
  • 66歳(1938年9月) 戦争の気配を避けてロンドンへ移る。68歳の1940年10月にはニューヨークへ
  • 70〜71歳(1942〜43年) 「ブロードウェイ・ブギウギ」を描く
  • 71歳(1944年2月1日) ニューヨークで肺炎のため死去。「ヴィクトリー・ブギウギ」は未完のまま残った

水平と垂直だけの画面にたどり着いたのは40代半ばで、生活のための模写もまだ続けていた。ブギウギの連作は、68歳で移り住んだ街で始めた新しい挑戦だった。

人物のつながり

  • ゴッホ:オランダの先達。1906年にオランダで開かれた大規模なゴッホ展に刺激され、モンドリアンは様式化した夜の風景を描くようになった。
  • ピカソ、ブラック:パリでキュビスムに没頭したが、2人には会えずじまいだった。
  • テオ・ファン・ドゥースブルフ:1916年2月に初めて会い、翌年『デ・ステイル』を創刊した盟友。1924年、ドゥースブルフが対角線を画面に取り入れて決裂した。モンドリアンは対角線が画面の均衡を壊すと考えていた。
  • ハリー・ホルツマン:ニューヨークでアトリエとレコードプレーヤーを用意し、ブギウギやブルースを教えた。

エピソード

「売るための絵を描くよりはいい」――教授の家で細菌を描く(38歳・1910年)

1910年6月、モンドリアンはライデン大学の細菌学教授ファン・カルカルの邸宅に住み込み、顕微鏡標本の図を描く仕事を始めた。友人には「きれいな仕事だが、お金のためだけ。売るための絵を描かされるよりはいい」と書いている。夫人も肉を食べないので自分も食べずに済むと喜び、「貴族趣味にとりつかれた僕には、たまの邸宅暮らしも悪くない」とおどけた。この年はサロン・ドートンヌにも落選し、10月には「どうせ何も売れないから、11月にまたライデンで『細菌』を描く」とこぼした。

住まいは7か所、模写の報酬は500ギルダー(43歳・1915年)

大戦でオランダに足止めされた1915年夏、モンドリアンはアムステルダム国立美術館で17世紀の大作「狩人」(185×224cm)を模写していた。8月19日の手紙では住まいを数え上げている。ラーレンに食べる家、働く家、寝る家。アムステルダムに寝る所と兄弟の家の食卓、それに仕事場の美術館。パリのアトリエと合わせて「7つの住まい!!」。報酬は500ギルダーと割がよく、抽象の制作は「それでも道楽として続けている」と書く。11月には「模写をしていれば自由でいられ、売らずに済む」と記した。

ダンス教室に通う40代の画家(45〜46歳・1917〜18年)

大戦中のモンドリアンは踊ることに熱を上げていた。1915年には「ラーレンでも楽しく踊れる。ハムドルフには小さなパリがある」と書き、1917年5月には収集家スレイペルに「イサーク家のご婦人方とも踊れる。大いに結構」と書き送っている。アムステルダムのドルラスのダンス教室で一緒に習っていたのが、ヴィリー・ウェントホルトである。レッスンの日取りを知らせる手紙には、ドビュッシー論まで書き添えた。2人の仲は恋に育ちかけたが、1918年6月、モンドリアンは「とても美しい友情という、澄んだ関係にたどり着いた」と書き送った。

出典・参考資料

  • Wikipedia(nl)「Piet Mondriaan」(生没年月日・生没地、アカデミー入学、ローマ賞の予選、1906年のゴッホ展、神智学協会への入会[1909年5月14日申込、25日登録]、1911年12月20日のパリ行きと改姓、キュビスム、ピカソ・ブラックに会えなかったこと、1914〜19年の滞在、ドゥースブルフとの出会い[1916年2月6日]と決裂、1938年のロンドン行き、1940年9月23日の出航と10月3日のニューヨーク到着、ホルツマン、死因、ヴィクトリー・ブギウギ)、Tate「Hello from 'Sleepy': Mondrian in London」(Tate Etc. 20号、2010年。1938年9月にロンドンへ移ったこと)、Wikipedia(en)「Broadway Boogie Woogie」(MoMA所蔵、1942〜43年)、人名辞典DB(同時代の人物の生没年月日)
  • The Mondrian Papers(RKD・Huygens研究所によるモンドリアン書簡全集のオンライン版、https://edition.mondrianpapers.org/)
    • アレッタ・デ・イオン宛て書簡 1910年7月前半(レター番号0019、ライデン)と注記(ファン・カルカル教授、1910年6月初め〜8月24日と11月〜1911年3月の住み込み)
    • アレッタ・デ・イオン宛て書簡 1910年7月23日(1307、オーフストヘースト)
    • シェルフハウト宛て絵はがき 1910年9月20日(0021、サロン・ドートンヌ落選)、同書簡 1910年10月3日(0022)
    • シモン・マリス宛て書簡 1915年8月19日(0070)と注記(ベールデマーケル「狩人」1653年、185×224cm)
    • ファン・ドゥースブルフ宛て書簡 1915年11月初め(1337)
    • サル・スレイペル宛て書簡 1917年5月15日(1368)
    • ヴィリー・ウェントホルト宛て書簡 1918年2月20日(0135)、1918年3月1日(0138)、1918年6月9日(0154)と注記(ドルラスのダンス教室、恋愛から友情へ)