呉鎮
ゴチン
Wu Zhen
1280年 – 1354年 (約74歳没)
呉鎮の人物情報
中国・元代の画家。字は仲圭、号は梅花道人。浙江省嘉興の魏塘(いまの嘉善県)の人で、黄公望・倪瓚・王蒙とともに「元末四大家」に数えられる。官に就かず郷里で暮らし、村塾で教えたり、易で占いをしたりして生計を立てたと伝えられる。山水は五代の巨然に学び、潤いのある濃い墨で独自の様式を築いた。墨竹と、世を離れた漁師を描く「漁父図」を得意とし、自作の詩や草書を画面に書き添えた。生前の名声は高くなかったが、明代に評価が高まり、董其昌らによって文人画の正統に位置づけられた。日本でも江戸時代に墨竹の模本が作られている。
同時代の人物
呉鎮が生まれた1280年は、南宋が崖山で滅んだ翌年にあたる。元の支配しか知らない最初の世代の江南の文人だった。
『徒然草』の吉田兼好は3歳下である。兼好は呉鎮より4年早い1350年に亡くなった。海を隔てて同じ時代に、京の兼好は随筆を、嘉興の呉鎮は画に添える詩を書いていたことになる。
西方では、フィレンツェの画家ジョットが13歳上だ。元末四大家の最年長、黄公望は11歳上で、呉鎮と同じ1354年に亡くなった。呉鎮が世を去ったとき、のちに明を建てる洪武帝はまだ25〜26歳だった。
年齢で見る生涯
年紀のある代表作は、ほとんどが40代後半以降のものだ。しかも名声が高まったのは死後100年以上たった明代からで、生前は郷里の一隠者にすぎなかった。
人物のつながり
エピソード
「和尚の塔」と書いた墓の予言(伝承・73〜74歳・1354年)
呉鎮は死期が近づくと、自分の墓に「梅花和尚之塔」と刻んだ小さな碑を立てさせた。人々が不思議がると、「いずれわかる」と答えたという。まもなく楊璉真伽が江南の墓を次々に暴いたが、呉鎮の墓だけは僧の墓と思われて難を逃れた。明の李日華『六研斎筆記』などが伝える話である。ところが清の『四庫全書総目提要』は、楊璉真伽の墓荒らしは呉鎮がまだ5、6歳のころの出来事だと指摘した。易に通じた人だったので、好事家が神秘化して年代を取り違えたのだろうと、ばっさり退けている。
隣の売れっ子と「二十年後」(伝承)
魏塘では、画家の盛懋が隣に住んでいた。盛懋の門前には金や絹を携えた注文客が引きも切らないのに、呉鎮の門はひっそりしている。妻子が笑うと、呉鎮は「二十年後にはこうではない」と言い、そのとおりになったという。明末の董其昌の文集『容台集』にある話で、二人より250年ほど後の記録だ。ただ、同時代に近い孫作は、権力者でも呉鎮の画は手に入らないが、良い紙と筆を差し出せば喜んで机に向かったと書き残している。
70歳の父が描いた竹の手本帳(69〜70歳・1350年)
台北の国立故宮博物院が所蔵する『墨竹譜』は、呉鎮が至正10年(1350年)の5〜6月に息子の佛奴のために描いた画帖である。全22図のうち、2図は蘇軾の文章を書き写したもの、残り20図が竹の絵だ。どの図にも、呉鎮自身の草書の書き込みが添えられている。竹の描き方を父が子に伝える教本である。明代の所蔵者は冊の頭に「万玉叢」と題した。
出典・参考資料